16時59分。
息を切らしたはるかはバイト先のキッチンへと飛び込んだ。
「おっ、遅くなりましたぁっ!」
壁にもたれかかっていた深山は時計を一瞥し、はるかのほうを向いた。
「…大丈夫。 一分前だよ」
その言葉を聞き、はるかは調理台に両手を付き頭を垂らした。
「はあぁ。 よかった…」
「別に五分くらい遅れてもいいのに…」
深山は苦笑してそう言う。
「だって、無遅刻記録が…」
彼女は、このバイトを始めて一度も遅刻したことがない。
ただしそれは、「晴輝」のときの記録だった。
深山は怪訝顔をする。
が、それも一瞬だった。
「…やっぱり兄妹なんだ」
彼はふっと息を漏らし、そう言った。
「え? あっ…。 兄もそうだったんですか?」
「うん。 やけにこだわってたよ」
「あはは。 変なところにこだわる人ですから…」
深山は大きく頷いた。
「あー、うん。 あいつは変だ」
はるかは、それは違うだろ、と突っ込みたくなる衝動を必死に抑えた。
微妙な殺気に気づいてなのか、深山はホールに向かった。
「さーて、注文でもとってきますか…」

 

混み合う時間帯になる少し前、今日は休みのはずの和馬がホールからキッチンに顔をのぞかせた。
彼ははるかに向かって手招きしている。
はるかは、彼の元へ向かった。
「バイク、お前の家に置いとくからキー貸してくれ」
「…やっぱり、あそこは邪魔だったかな?」
はるかがそれを停めた場所は、狭い路地だった。
「ちょっとな。 それと、野獣キレるぞ?」
彼はバイクでもらい事故を起こした経験があるので、それでの通勤は先例を鑑み、あまり好ましく思っていない。
「…確かに。 じゃ、よろしくね」
はるかは苦笑しながらポケットからキーを取り出し、それを和馬に手渡した。
「じゃ、よろしくね」
「あいよ」
和馬は背を向け、店の出口へと向かった。
それと入れ替わるように優がキッチンへと戻ってくる。
「女の子はポケットにあんまり物を入れないものだよ」
すれ違いざまに、彼女はそう言った。
「え? そうなの?」
はるかは突然だったので、呆けたように言った。

 

慌しい時間になった。
空いた皿を下げ、キッチンへと運んでいたはるかは、別のテーブルの客から呼ばれた。
「お待たせしました~」
はるかは、客の顔を一瞥すると端末に目を落とした。
「えーっと、生中4つお願いね」
「はい。 以上でよろしいでしょうか?」
操作しながら、彼女はそう言った。
客は同席の人に確認している。
……そういえば、お客さんの顔見る癖がないなぁ…。
注文の入力を終えたはるかは、そう考えた。
「うん。 以上で」
「はい。 それではただいまお持ちいたします」
今度は、客の顔を見てそう言った。

 

バイトの時間が終わり、はるかは帰り道を辿っている。
明日は休みだし、どこか出かけようかなぁ。
0時を回っているので正確には「今日」だが、彼女はそう思考を巡らせた。
バッグから携帯を取り出そうと歩速を緩めたその刹那。
影が、動いた。
はるかは、その不審な気配を振り返って確認することができなかった。
何事もないかのように携帯で時刻を確認し、それを仕舞う。
後方の気配は一定の距離を保ちつつ、ついてくる。
自然と足早になっていくのが自分でもわかった。
それに合わせてその気配の速度も速くなっている。
先ほど確認した時刻を、なんとなくもう一度確認する。
後ろの気配が静かな足音を立てた。
はるかはぴくっと身体を小さく震わせた。
恐怖心から思い通りにならなくなった足を奮い立たせて走り出した。
程なくして到着したアパートの階段を駆け上がり、鍵を開けた。
ここで初めて後ろを振り返った。
「……誰も居ない…」
辺りを見回しても不審な気配はなかった。
「気のせい、か…」
はるかはそう独り言を呟き、玄関の中へと入っていった。

 

顔に射し込む朝日ではるかは目を覚ました。
時刻は七時半。 まだ覚めあがらない頭でゴミ袋を手に取る。
それに昨日分のごみを放り込んでゆく。
テーブルの上にあった携帯電話の料金払い込み票が目に付き、それをを手に取る。
「12,000円…。 使いすぎだろ……」
そういい、上部を切り取りごみ袋に入れた。
ひととおり片付いたところで、袋の口を縛りながら外へ出る。
外階段を下りてすぐのごみ集積所に袋を置き、防鳥ネットをかけるところで、主婦風の人が声をかけてきた。
「おはよー」
「あ、おはようございますー」
彼女がごみ袋を持っていることに気づき、はるかは防鳥ネットを持ち上げた。
「あら、ありがと。 あなた、そこのアパートの人?」
「はい、そうですよ」
予想通りの答えを受けた彼女は、ごみ袋を置きながら心配そうな声で言葉を続けた。
「この道は人通り少ないからねぇ。 特に夜は気をつけてね」
「はいー」
「最近変な人も増えてるしね」
はるかは、ネットから手を離した。
「そんなのが現れたら、張り倒しますよ」
左手で右上腕の、ちょうど力瘤の辺りを押さて、笑いながらそう言った。
その仕草につられるように、彼女も微笑をこぼした。
「その意気、と言いたいところだけど、危ないと思ったら逃げなきゃダメよ」
「そうですね」
女性はこちらに顔を向けたまま反対を向きつつ、言う。
「それじゃあね」
「はいー」
返事を受けた彼女は体を向けた方向に歩き出した。
はるかも同様に自分のアパートへと足を向けた。

 

午前10時過ぎ。
はるかは携帯電話の電話帳から和馬の番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
応答を待つ間、ファッション雑誌のページをめくってゆく。
目を惹く服が載っているページをまじまじと見つめていると、七回目のコール音の途中でぷちっ、と小さい音が聞こえた。
『うーぃ』
もう一回応答がなければ切ろうとしていたところに、いつもどおりの眠そうな反応があった。
はるかは、ちょっとした安堵感を覚えた。
「もしもし、おはよー。 起こしちゃった?」
『いや、今起きようとしてたところだ』
言葉の端々に欠伸を噛み消すような雰囲気が読み取れて、はるかは顔だけで笑った。
「そか。 いきなりだけど、きょうヒマ?」
『あん? 予定はないぞ』
「んじゃあさ、どこか出かけない? 新しい服が欲しくてさ。 ……あのとき、あんまりそんな気分じゃなかったし」
『…あぁー……、そうだな。 ちょうど……ふぁ~…、悪り。 俺も見に行きたかったころだしな』
「じゃ、決まりっ! どこ行こうか?」
はるかはそう言いつつ、伸びてきた髪の毛をくるくると指先でもてあそぶ。
『そうだなぁ…。 最近行ってないし、原宿とかは?』
先ほど止めたページには、そこの住所が書いてあった。
「あ、いいねぇ」
『それじゃ…うーん、11時ごろにそっち行くわ』
「うん、了解~」
髪の毛をいじっていた指に、枝毛の感触があった。
『んじゃ、また後で』
「ぁーぃ」
程なくして、先ほどと同じようにぷちっと小さい音がして、終話音が聞こえた。
それを確認するとはるかは携帯電話の終話ボタンを押した。
まだ指にかかっていた枝毛を指先で選別し、一本残ったところで引き抜いた。
ぴりぴりと痛む感覚を残したまま、はるかはバスタオルを手にとって浴室へ向かった。

 

シャワーの飛沫が柔らかな肌で跳ね返り、四方へ飛ぶ。
お湯の熱さに身体が慣れたころ、シャンプーを手にとって泡立て、髪を洗う。
頭全体を泡が包み、しばらく擦ってから泡を洗い流した。
続いて、リンスを手探りで探し、それを同じように髪に塗り付ける。
頭の上で「しゅわっ」と音がした。 シャンプーをリンスと間違えたようだ。
「……ぅぁ…」
そのまま洗い流すのはもったいない気がしたので、不本意ながらもう一回シャンプーをすることにする。
二回目なので適当に済ませ、次こそリンスを頭につける。
それを髪全体になじませると、ボディータオルに水を含ませてシャワーを止めた。
タオルをボディーソープのポンプの下にもっていき、それを三回押した。
白色の液体石鹸を練って泡だて、左腕から洗っていく。
そこから首筋、おなか、右腕と順に、タオルを左手に持ち替えつつ動かした。
右手の指先まで洗うと、泡を搾り出し、胸を洗い始める。
ぷるんっ、と揺れるその感覚に、まだ少しの恥じらいを持ちつつも両の膨らみを優しく撫でる。
やがて身体全体を洗い終わり、シャワーの栓を捻ってお湯を出し、首筋から泡を洗い流していく。
腕の泡が落とされたところで、はるかは腕に産毛が生えていることに気づく。
「女でも腕に毛は生えるんだぁ」
ふと気になり、脇の下を鏡に映す。
「ここもか…」
気づかなかったことを少し恥ずかしく思ったが、ノースリーブの服を着たことはなかったので、とりあえずセーフとしておく。
全身の泡を洗い流してシャワーを止め、産毛を剃り落とそうと剃刀を手に取ったが、しばらく使っていなかったので刃は錆び放題になっていた。
ドアを開けて、そばにあったごみ箱にそれを捨て、棚から新しい剃刀を取り出した。
「まさか再び使うことになるとはな」
捨てずに取っておく自身の貧乏性に感謝しながら、毛を剃り落とす。
脛にも生えていることに気づき、それも剃る。
すべて剃り終わると、洗顔料を手に取り、顔を洗い始める。
洗い終わると頭からシャワーを浴び、リンスと洗顔料の泡を洗い流す。
ついでに、剃ったときに残った毛も流し、シャワーを止め、浴室の外へ出た。
雫が滴る髪の毛の上にバスタオルを乗せてわしわしと一通り拭き、上気した身体を冷ますように深呼吸をする。
「ふぅー…」
そこで突然、玄関のドアが叩かれた。
「おーい、高橋ー。 入るぞー」
「え? ちょっ、待っ…!」
扉は問答無用に開かれた。
玄関に一歩足を踏み入れ、もう片方の足を中に浮かせている和馬の目に、足をクロスさせて下半身のそれを、右手で持ったタオルで胸をそれぞれ隠し、左手を手持ち無沙汰に彷徨わせているはるかの姿が飛び込んだ。
三秒弱ほど二人は静止したのち、
「……取り敢えず、ドア閉めてもらえる…?」
はるかは彼に、そう言った。
「えっ? あっ…! わ、悪りぃっ!」
和馬は慌てて半回転し、ドアを閉めた。

 

「もういいよー」
ドアに向かい合い、冷や汗を落とし続けている和馬に声がかかった。
彼は申し訳なさそうに居間へと足を踏み入れた。
「あー…、あのな。 その、悪かったっ!」
こめかみを掻きつつ、和馬ははるかに最敬礼をした。
「いいって。 事故だよ、事故」
彼女は、牛乳のパックから口を離し、笑いながらそう言った。
和馬は訝しげにはるかの持っているものを見た。
「…牛乳?」
「え? あー、うん。 ちょっと…ね」
今度は、はるかが少し慌てた様子でそう答えた。
その彼女を和馬はまだまともに見れないでいた。
「ごめんねー。 シャワーに意外と時間かかっちゃって、まだ準備できてないんだ」
その言葉に、和馬は彼女の入浴姿を想像してしまうが、それを振り払った。
「いや、いいって。 適当にその辺の本読ませてもらうぞ?」
「うん、いいよ」
そう言いつつ、はるかは化粧品の入った箱を手元に引き寄せ、化粧水を取り出した。
それを手のひらに取り出し、少しずつ顔に摺りこんでゆく。
続いて、ファンデーションを手に取ってふたを開け、パフに粉をつけ、それを頬のあたりに持っていく。
「…こなれたもんだな」
自嘲の念を声に乗せるように呟き、はるかはファンデーションを自分の顔に塗り始めた。
「ふむ…」
その姿を、本から自然と目が離れていた和馬は、観察するように眺めていた。
「…え? なに?」
パフを反対側の頬にあてていたはるかは彼の物珍しげな視線に気づき、そう言った。
「いや、ほんとよな、って思って」
和馬ははるかのひとりごとじみた呟きに回答をした。
「はは…。 やっぱそう思う? 変だよねぇ…」
彼女は力なく笑いながら、肩を少し落とした。
「は?」
変だ、という意図しない反応に、和馬は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「いや、なんかさ。 今はだいぶ薄れた気がするけど、女装してる、って気分になってくるんだよね…」
はるかはファンデーションをテーブルにそっと置き、ため息を吐いた。
「それに、こなれてきただなんて…。 気持ち悪いなぁ…」
自身への嫌悪感が、眉間の皺となって現れた。
和馬は少し黙ったが、やがて鼻から息をふっ、と漏らした。
「いつかその感覚にも慣れればいいんじゃねーの? いまはアレだろうけどな」
そう言い、こめかみを掻きつつそっぽを向いた。
「それに、…す、少し、似合ってるしな」
俯き加減だったはるかはゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「…ありがと」
その微笑を横目で見ていた和馬は、体温が2度ほど上がった錯覚を感じた。
「それじゃ、行こうか。 遅くなっちゃうよ」
「だな」
そう言い合うと、ふたりはほぼ同時に立ち上がった。

 

正午を少し過ぎ、ふたりは原宿に到着した。
お昼時なので通りは若干空いていた。
歩きやすいその通りを、展示されている商品を流し見ながら歩いてゆく。
しばらく歩いていると、はるかはふと歩く速度を緩めて、やがてとある店の展示品の前で立ち止まった。
「シルバーか」
彼女に倣って立ち止まった和馬はそう言った。
はるかは、一本のネックレスのチェーンを指で掬って、十字架状のトップを眺めるように見た。
「うん」
「ていうか、それ男物だって」
「…あ。 ……いや、カズちゃんにどうかな、と思って」
「でも、それ…」
和馬は口篭った。
彼女の持っているそれは、デザイン的に「晴樹」の趣味だった。
二秒半ほど黙っていた和馬は、すっと微笑の顔を作った。
「そうだ。 いいこと思いついた」
「ん?」
和馬ははるかのほうへ手のひらを出した。
「それ、貸してみ」
はるかはその言葉に従い、チェーンをフックから取り、彼に手渡した。
受け取った和馬は、そのまま店内に入っていく。
何をするつもりなのかと、はるかは彼の後姿を怪訝な眼差しで追った。
やがて戻ってきた和馬は、紙製の小袋を投げるようにはるかに渡した。
「よし。 次、行くぞ」
「次…、って、え?」
和馬は、今手渡したものを顎で指した。
「それに合う服を探しにだよ」
怪訝顔をしていたはるかは、笑顔へと表情を変化させた。
「…うんっ」
そう答え、バッグから財布を取り出した。
「いくらだった?」
「いや、いいって。 俺の思いつきだし」
「いやいやいや、そんなの悪いって」
和馬はこめかみを人差し指で掻いた。
「これからお前で遊ぼう、っていうんだ。 その対価とでも思っておけ」
「う~ん…」
はるかは唸って、半秒考えた。
「…そか。 じゃ、遠慮なくいただいちゃおうかな。 ありがと」
「おぅ。 お、あの店とかよさそうだな」
問答のうちに、目的のものが置いてそうな店の前にたどり着いていた。
ふたりはその店に入る。 店内はモノトーンで彩られていた。
その奥へと突き進むと、あまり数が多くはないが、女性ものの服が陳列されていた。
和馬は、棚から黒いスカートと思われるものを手に取って、広げた。
それは思い通りスカートで、長めの裾は鋭角を成していた。
「こんなのは?」
和馬はそう言うと、はるかにそれを差し出した。
「どれどれ…?」
受け取りつつそう答えたはるかは、自分の腰あたりにそれを当てて、空いている試着室の姿見を見てみる。
「あー、いいかも」
「だな。 ウエストいくつだっけ?」
はるかは人差し指を口もとに当てて考えた。
「んー、確か64だったかな」
「64か…」
和馬はタグを上から確認していき、数枚目で該当するサイズを見つけた。
「これだな」
そう言い、はるかに渡しつつ、先ほどのスカートを受け取り、畳もうとした。
が、広げたまま停止する。
「ん? どしたの?」
「…いや。 スカートってどう畳むのかな、と思ってな」
「あ、普通はわかんないよね」
はるかはくすっと笑い、和馬からそれを再び受け取り、畳みなおした。
「じゃ、次はトップスだな」
和馬は少し考え、白いTシャツとレースをあしらった黒いシャツを手に取り、デザインを確認するとはるかに手渡した。
「こんな感じだろ」
そう言って、店員に試着をしていいか確認する。
店員は快く承諾した。
「じゃ、着てきてみろよ」
「うん」
返事をし、はるかは試着室に入ってカーテンを閉めた。
それを見た和馬は試着室を背に立った。
少しして、衣擦れの音が聞こえ始めた。
いつかのことを思い出すな、と、彼は思った。
彼女が女の身体を持った最初のころのことだ。
あのときのふたりは、まだどこかぎこちなかった。
だが、今はもうその痕跡は消えつつあった。
それは、関係が元通りになっていっているということを意味している。
彼女が今までどおりの振る舞いをするようにしているおかげかも知れない。
たまにイタズラはするけどな、と思い、こっそりと苦笑したところで、和馬は思考を中断した。
そこで、かしゃっと音とともにカーテンが開いた。
和馬はその音を確認すると、後ろを振り向いた。
「お。 終わっ……」
言いかけたところで、着替えの終わったはるかの姿が目に入り、思わず絶句してしまう。
不自然と思われた衣服も、存在を主張するかのように彩られたそれは、彼女の小柄な体型が所以であるように感じられた。
力強くも儚いような、そんなデザインは、ちょっと無理して背伸びしてみましたというイメージだ。
鋭い形に裁断された生地が重なったスカートから、彼女の脚線が見え隠れしていた。
「えっと…。 変、かな?」
黙っている和馬の反応を受け、彼女は恥ずかしそうに俯き加減でこちらを見ながらそう言った。
「…いや。 か…いい、んじゃないか? うん」
和馬は、敢えて最上級の形容詞を避け、そう答えた。
「よかったー。 変だって言われたらどうしようかと思った」
「普通に似合ってると思うぞ」
「ありがとー。 それじゃ、着替えるね」
「おぅ」
しばらくして、元の服に戻ったはるかから和馬は先ほどの服を受け取った。
それには少し、彼女の体温が残っていた。
邪念を抱きそうになった和馬は、それを振りほどくようにレジに行き、決して安くはない会計を済ませた。

 

先ほどの店を出たふたりは、カフェで少し遅い昼食を摂った。
こればかりは、とはるかがお金を出した軽食が載せられていたトレイを返却棚に置くと、その奥から、恐れ入ります、と声がした。
それに各々ごちそうさまと返し、ふたりは店を後にした。
「それにしても、意外と似合うんだな…」
和馬ははるかの持っている紙袋から目線を離しつつそう言った。
「うん。 自分でもちょっとびっくり。 次のデートのとき着ようかな?」
はるかのその言葉に和馬は、彼女が誰かに、愛おしく微笑みを投げかける姿を想像して、少し焦った。
「え? デートって、だ、誰と……、って、バカっ…!」
言いながら、その「誰か」が自身のことと気づき、さらに焦る。
その姿をはるかはイタズラっぽく笑いながら見た。
「冗談だって。 ほんとこういうの弱いねぇ」
和馬はふてぶてしく、そっぽを向いた。
「うるせえ」
そう言い、もやもやとした憤りを歩く速度に込めた。
「あ、ちょっとー」
半身ほど前に出た和馬を追いかけるように、はるかも足を速めた。
「ごめんごめんー。 って、ほんと歩くの早……あっ!」
まだ履きなれない、踵の高いサンダルで無理をした速度で歩こうとした彼女は、歩道の段差に躓いて、上半身だけが前へと進んだ。
「あぶっ!」
転倒を覚悟したはるかに、咄嗟に振り返った和馬の手が差し伸べられ、彼に抱かれる形で静止した。
彼女の髪がふわりと落ちるまで、ふたりの時間は止まった。
「ご、ごめんっ…。 ありがと」
和馬は、彼女の肩を押し、身体を垂直にさせた。
「いや…。 気をつけろよ」
そう言うと、彼は再び歩き出し、頬を薄いピンクに染めているはるかもそれに倣った。

 

午後7時。
はるかは和馬に送ってもらい、アパートの階段の上り口で彼に手を振った。
彼が走り出すのを見届けてから階段を上がり、バッグから鍵を取り出し、施錠を解除した。
三つの大きめな荷物のおかげで開けづらいドアを開けて、玄関に入る。
荷物をいったん置き、サンダルを脱ぐのに身体をかがめる動作のついでに鍵を閉めた。
踵の紐を両足分押し下げ、脱ぎつつ荷物を持ち直し、空いている手で靴をそろえて脇に置き、居間に入った。
照明のスイッチをオンの位置にすると部屋に明かりが灯った。
荷物をテーブルの近くに置き、カーテンを閉めて、持ったままのバッグから携帯電話を取り出し、テーブルに置いた。
バッグをハンガー掛けの隣に置き、冷蔵庫から牛乳を取り出して二口ほど飲み、再びそれを冷蔵庫に戻した。
居間に戻るなり、携帯電話の着信音が鳴った。 個別登録ではない、既定の着信音だった。
サブディスプレイには03から始まる番号が表示されていた。
製薬会社の人かと考えたが、念のため電話帳に番号を登録しておいたことを思い出した。
対外的な声を準備する四半秒ののち、始話ボタンを押した。
「もしもし、高橋ですー」
『………』
応答するが、時折のホワイトノイズ以外は何も聞こえない。
電話を耳から離してディスプレイを見てみると、通話中の表示がされているが、電波状況を示すインジケーターは二本のみ表示されていた。
「もしもーし」
はるかは窓際に移動して電波状況の改善を試みた。
『……………』
が、状況は変わらず、向こうの音は聞こえない。
やがて、ぷちっと小さい音がして終話音が鳴った。
その音を確認すると、くりっと小首を傾げて電話の主が誰だったのか考えるが、思い当たる節はなかった。
「…まぁ、あとからかけ直してくるだろ」
そう呟き、そろそろ一年使い続け、電波の入りにくくなった携帯電話を新しい機種にしようかと考えながら電話をテーブルの上に戻した。
その夜、彼女の携帯電話に着信することはそれ以降なかった。

 

翌日、はるかは目を覚まし、目覚まし時計に目をやった。
それは、時刻が7時半であることを告げていた。
起きるべきだと認識した彼女は半身だけ起こし、凝り固まった身体を伸ばした。
それから、ふぅ、と息を吐いて立ち上がり、洗面台に向かった。
立ててある歯ブラシを手にとってそれを濡らし、歯磨き粉をつけて歯を磨き始める。
しゃこしゃことブラシを動かしながら、玄関に行って朝刊を郵便受けから引き抜いて、踵を返し、居室へ戻った。
半分ほど記事に目を通したところで、立ち上がり再び洗面台に向かう。
口をゆすぎ、歯ブラシを洗って元の位置に戻し、キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。
その中には朝食の材料になりそうなものはなかった。
買い置きがないことに少しがっかりしながら、はるかはふぅ、とため息をつき、冷蔵庫を閉めた。
ほかに朝食になりそうなものを探そうと、シンク下の扉を開けた。
すると、未開封の朝食シリアルが奥のほうにあった。
それを引っ張り出し、期限を確認する。
賞味期限の欄には、およそ一ヵ月後の日付が記されていた。
「ぉ。 あぶね」
そう呟き、はるかは深めの皿を水切り籠から、牛乳を冷蔵庫からそれぞれ取り出し、居室へ戻った。
持ってきたものを置こうとすると、携帯電話から着信音が鳴った。
サブ ディスプレイには「父さん」と表示されていた。
手に持っていたものを置くと、はるかは電話を手に取り、二つ折りのそれを開け、始話ボタンを押した。
「もしもしー」
『えっと、父さんだ』
「うん。 どしたのー?」
電話を肩と耳で挟み、シリアルの箱を開封する。
『昨日の晩、母さんの手術だったんだ…』
「あ、そうだったの? どうなったの?」
はるかは、電話を手で持ち直した。
『それが…、あのな…。 心して聞いてほしい』
謙二は、悲痛な声で、区切りながらそう言った。
はるかは、ふっと力を抜き、電話を肩で持った。
「成功したんでしょ?」
『…え?』
彼は意表を突かれたような声を出した。
はるかはくすっと笑った。
「演技っぽいもん。 驚かそうとして、いつもそうしてたじゃん」
そう言うと、電話から笑みを含んだ吐息の音が聞こえた。
『ちっ、つまんねぇ。 お前、鋭いんだな…』
彼はそう言い、観念したような声で続けた。
『あと数週間で退院できるそうだ』
「よかったぁ。 取り敢えず一安心だね」
『ああ。 そうだな』
シリアルを盛った器に牛乳を注ぎながら、はるかは昨日のことを思い出した。
「そういえば、昨日東京にいた?」
『いや? なんでだ?』
「心当たりのない03の番号から電話があったから。 もしかしたら、ホテルからとかかけたのかな、と思って」
『そうか。 まぁ、用事があるなら、またかかってくるだろ』
「そうだね」
『それじゃ、仕事行くから』
「うん。 がんばってね」
『あいよー』
彼のその言葉で、電話は切れた。
はるかは電話を閉じると、シリアルをスプーンで掬って口に運んだ。

 

午後11時。
客が殆どいなくなり、はるかのバイト先である焼肉屋のホールにもキッチンにも気だるい空気が流れている。
その空気の中、バイト中のはるかはキッチンの壁にもたれ掛かってほかのバイトたちと談笑している。
その輪の中にホールにドリンクを運んで行っていた大橋が戻ってきた。
テーブルの縁に背中を預けている優は彼女に一瞥をくれた。
「おかえりー」
「ただいま」
そう言いながら彼女は優の隣に立つと、はるかを興味津々といった目で見た。
「んで、カズちゃんとはどこまで行ったの?」
「んぐっ!?」
問われたはるかは、飲んでいたお茶をのどに詰まらせた。
「どうなのさー? デートとか、キスとか。 まさかその後まで? きゃぁ~!」
むせながら、はるかはいたずらな笑みを作った。
「最後までは行ってないけど、デートくらいなら」
「デート!? デートって、恋愛の初期段階の!? あぁ、禁断の恋愛の初期段階ぃ~!」
大橋はいまにもブリッジをしそうな勢いで身を捩じらせて悶えた。
対して優は真剣な顔ではるかを見た。
「ちょっと、デートってあんた…」
「冗談だよっ」
はるかは舌をちろっと出し、背中を起こした。
「じゃ、お皿洗ってくるね」
「お皿洗いは男の仕事じゃん」
「そう言う気分なのっ」
言いながら流し台の前に立ったはるかはお湯の蛇口を捻った。
皿洗いを始めると、坂口が口をもぐもぐさせながら彼女の横に立った。
「手ぇ荒れちゃうといけないから、俺らに任せときなって」
はるかは彼の口の動きを怪訝なまなざしで見た。
「…何食べてるの?」
「ん? ハラミ。 はるかちゃんも食う?」
彼は肉の乗った皿を差し出し、空いた手で中ジョッキをあおった。
「遠慮しときます。 って、また飲んでるし…。 店長に怒られても知らないよ?」
「あぁ。 野獣は明日まで用事があるからとかで、いないから大丈夫だよ」
そう言い、彼は歯に挟まった肉を舌で取るように口を動かしてから、再びビールをあおった。
「お疲れさんー」
そこで、事務所へ繋がるドアが開き、梶原がそこから現れた。
「ぶっ!?」
坂口は口の中に残留していたビールを殆ど吹き出し、慌てて皿とジョッキを自身の背中で隠した。
梶原はその様子を横目で見ながら、バッグから書類を取り出した。
「店長会議ってのもダルいな…。 ほい、これが店員回覧の要旨。 悪いけど貼っといてもらえる?」
「はいー」
受け取った大橋はそう言い、棚に置いてあった画鋲を手に取り、目に付きやすい場所を探した。
「それから、また出かけなきゃいけなくて明日の夜まで戻れないから…」
そう言いつつ、彼は店の鍵を取り出した。
「相田。 あした昼番だったよな? かぎ開け頼むわ」
「了解ですっ」
答えた優に鍵を渡し、彼はゆっくりと坂口のほうへ向いた。
彼はぴくっと身体を硬直させた。
「あれ? 坂口。 顔赤くね?」
「いや、あの。 …38.5℃の熱がありまして」
彼は坂口に接近する。
「ほーぅ。 体調不良を押しての執務とは感心だな。 ところでアルコールの匂いがするのだが?」
「さっき転んで浴びちゃったんですよ。 体調…、そう、体調が優れないんで」
「じゃあ事務所で少し休もうか」
鼻の先の距離まで接近した梶原は坂口の襟首を掴んだ。
「い、いえ、大丈夫ですっ! ほんとに…、いやっ! やめてぇ!」
問答無用で彼は暴れる坂口を引き摺って行った。
ドアが閉まり、ため息の多重奏がキッチンに響いた。
「ごめんなさい、すいませんっ! ほんとは飲んで食ってました! 白状したんで許してくださいっ! その握り拳は何ですかっ!? 暴力反対っ! …あ。 
やっぱりそこまで酷くはな…って、拳を緩めたのはその灰皿を持つ為ですかっ! そんなんで殴られたら少しどころか永遠に休憩しちゃうがふぁ!?」
坂口のわめき声が止み、再び店員たちはため息でハーモニーを奏でた。
全員が顔を上げたころ、ドアが開き梶原が顔を出した。
「じゃあ、明日、頼むな」
「はい」
明日シフトが入っている、はるかを含めた数人が返事をした。
それを確認し、彼はドアを閉めた。
その十数分後、坂口が頭を押さえて戻ってきた。

 

はるかはひとり、帰り道を辿っている。
店を出たときに確認した時計は、0時半付近を指していた。
後ろからは、不審な気配がついて来ていた。
はるかは、普段の五割増くらいの速度で歩いている。
気配はどんどんと接近する。
彼女の心臓の鼓動は、次第に早くなっていった。
…またか。
先日のあの気配も気のせいではないと思い、歩くたびに恐怖に苛まれることに憤りを感じた。
バッグの紐を持っている拳に力を入れる。
背後からは、ついに足音が聞こえ始めた。
「おい」
その低い声が、自分に向けられたものだと認識し、表情を険しくし、その場で立ち止まる。
止まった足を軸にして、身体を回転させながらバッグを振り回した。
「おわっ!?」
後ろの男はそれを両手で受け止めた。
「私に何か用でも……」
言いながら、はるかは男を睨み付けたが、顔を見た瞬間、言葉が途切れた。
その男は、和馬だった。

 

はるかは平謝りし、さきの出来事を説明しながらアパートへ向かう。
「そのときのは俺じゃないぞ」
「う~ん…。 じゃあ、誰だったんだろう…」
言いながら、自然と視線が下がっていった。
「気のせいだったんじゃねーの?」
対して、彼は少し先にある目的地の階段に視点を固定している。
「いや、絶対に誰かいたって」
「はいはい…」
「ちょっと、なにその反応…」
適当な反応を受け、半ば八つ当たりとも言える憤慨を彼にぶつけるように、頬を膨らませた。
「ていうか、ほんとに思い込みだと思うぞ?」
そう言いながら、膨らんでいる彼女の頬を突いた。
押された片頬分の空気は『ぷしゅっ』と音とともに抜けた。
半秒後、その間抜けな音によって笑いを誘われ、残った空気を鼻で吐き出し、はるかは肩の力を抜いた。
「…そうかも」
やり取りのうちにアパートに着いた。
その外階段を半分ほど上ったところで、和馬はゆっくりと口を開く。
「ていうかお前さ……」
言いかけて言葉を切った彼に、鍵を開けながら「言え」と目で言った。
迷ったように少し黙り、再び口を開いた。
「つけてくる誰かに心当たりでもあるのか?」
ドアを引いていた手がぴくっと止まり、四半秒の後、動作を再開しそれを完全に開き、玄関に入って靴を脱ぎつつ躊躇いがちに言う。
「…あの痴漢じゃないかな、って……。 昨日の今日だし…」
「いや、それはないだろ。 そいつってどの駅で乗ってきたんだ?」
彼が靴を脱いで廊下に一歩踏み出したところで、居室へと歩き出す。
「ここだったはずだよ」
そう言い、照明のスイッチを切り替えた。
蛍光灯が数回点滅し、部屋に明かりを灯した。
「…だとしても、特定は無理だと思うぞ? 帰りはバイクだったし、降りた駅だって違うんだろ?」
はるかはバッグを置き、テーブルの前に座った。
「うん…。 そう、だよね……」
彼女に倣って座った和馬は、持っていた袋からビールの六缶パックを取り出した。
「つーわけで、飲むぞ」
「…あした昼番なんだけど」
その言葉を半ば無視するかのように二本取り出し、そのうち一本をテーブルに置いた。
「十時くらいに起きれば問題ねえって」
少し考えたのち、ふっと息を漏らし、彼女は差し出されたそれを手に取った。
「じゃ、一本だけね。 時間も時間だし」
「さすが。 ノリだけはいいな」
彼が持っていた缶のプルタブを起こすと、それの内圧が開放される小気味の言い音が響いた。

「だけ、ってなにさ…」
苦笑しつつ、彼に倣って缶を開け、手前に持っていった。
「気にするな。 乾杯」
「ぁぃ」
二人の缶が触れ合い、こんっ、と鋭くも鈍くもない音を立てた。

 

一時間半後。
テーブルには4本の空き缶が整列されていた。
雑誌を読んでいた和馬は、缶の列にもう一本加えるようにちょうど今空いた、彼にとって3本目の缶を置いて冷蔵庫に追加を取りに行こうと立ち上がった。
ふとはるかを見ると、寝息を立てていた。
仕切り戸を開け、その直近にある冷蔵庫からビールを取り出して居室に戻り、彼女の横に座った。
心地よさそうに眠る彼女を視線に捕らえつつ、プルタブを起こし、その流れで一口飲んでテーブルに置いた。
視線は、また彼女の顔へと戻った。
呼吸のたびに動く唇と、飲酒により上気した頬が扇情的に映った。
意識をしてはならないと頭では思っていても、なかなか目を離すことができなかった。
彼女とは友人で居たい。 それ以上の感情を向けられることを彼女は望んではいないだろう。
そう思い、蜘蛛の糸を払うように視線を背け、雑誌へと興味を強制的に戻そうとした。
だが、一度抱いた邪念はそう簡単には取り払えない。
ビールを飲み、テーブルに置くときに、どうしても目があちらに向いてしまう。
寝返りを打つたびに丸まっていく彼女を見て、後頭部を乱暴に掻いた。
「…かぁーいいな、ちきしょう」
小さく呟き、3分の1以上缶に残っていたビールを一気に飲み干した。
寝ちまおう。
そうすれば邪念もなくなるだろうと思い、照明の紐を数回引き、明かりを消し、その場に寝転んだ。
なるべく、無の境地へと心を持っていこうとする。
しかし、思えば思うほどに眠れなくなってくる。
その上、彼女の呼吸と、寝返りのときにする衣擦れの音が気になってしょうがない。
しばらく自身との格闘を繰り広げていると、寝息がやけに大きく聞こえ始めた。
ここで目を開けてしまうと、またしばらく寝られそうになくなるが、まぶたを半開きにしてみる。
眼前に、はるかの顔があった。
(近ッ!! 顔近ッ!!?)
心でそう叫び、思わず目を見開いてしまう。
さっきまで足が反対側に向いていたのに、と思ったが、彼女は酒を飲むと寝相が悪くなることを思い出した。
心臓の鼓動は早く、そして強くなっていく。
「ぅ…ぅん…」
時折、呼吸に混じっての唸り声が、少し動けば接触しそうな距離から聞こえる。 艶かしく感じないわけがなかった。
キスしちゃえ。
彼の心の中の悪魔が、そう囁いた気がした。
右手が彼女の後頭部へと伸びていく。
寝ている女の、しかも友人の唇を奪うなど、そんな倫理に反すること…、などと考えながらも、アルコールによって破壊されつつあった理性は、それを止めることができなかった。
殆ど躊躇なく頭に手を載せ、柔らかい髪を撫でながら顔を動かし、微かな寝息を触覚として感じられるほどに近づけた。
バレやしない。 大丈夫、これは事故だ。
そう思い、最後の一押しをしようとしたところで、彼女の瞼が少し動いた。

 

カーテンの隙間から日の光が漏れている。
時刻は9時半を少し回ったくらいだった。
ちょうどいい時間だと思い、はるかは上半身を起こし、和馬が寝ているだろう場所を見た。
そこに、彼はいなかった。
帰ったのかな?
そう思って立ち上がり、台所との仕切り戸を開けると、その向こう、冷蔵庫の前で和馬が寝ていた。
「なんでそんなとこで寝てるの…?」
彼は少ししてその声に反応し、彼女の顔を確認した。
「……おゎ!? あああ、いいいいや、その、だな?」
言いながら、両手で後退していった。
「なにキョドってんのさ…」
はるかは苦笑し、トイレに入った。
和馬は慌てふためき、しばらく動けないでいると、ちょろちょろ、という音がドアの向こうから聞こえ、さらに慌てて居室に入った。
しばらくすると、彼女は歯を磨きながら戻ってきた。
腰を落としながら玄関から持ってきた新聞を広げて置き、胡坐をかいて座ったが、和馬の存在を思い出し、組んだ足をほどいて正座から足を崩したような座り方に直した。
歯ブラシを左手に持ち替え、ページをめくりながら見出しを閲覧する。
気になるタイトル見つけると目を留め、記事に目を通す。
数分後、連載漫画を読み終え、新聞をたたみ、洗面台に向かう。
溜まった歯磨き粉の泡を吐き出し、数回ゆすいで口の周りをタオルで拭きながらシンク下から朝食シリアルを取り出し、居室に顔を出した。
「朝ごはん食べる? コーンフレークだけど」
「あぁ、もらおうかな」
和馬は、彼女の置いた新聞に手を伸ばしつつそう答えた。
「ぁぃ」
そう短く言い、器を二つ出し、それらにシリアルを盛る。
2つ目の器に盛ったとき、細かい粒がぱらぱらと落ちてきた。
空になった袋をゴミ箱に捨てると、冷蔵庫から牛乳を取り出し、器に注いだ。
「おまたせー」
それらを居室にもって行き、片方をテーブルの和馬側に置いた。
「お。 さんきゅ」
テレビ欄を見ていた和馬は新聞をたたみながら顔を上げ、器を手に取った。
はるかも座り、リモコンでテレビの電源を入れた。
「そういえば」
スプーンで一口分を掬ったときに、ふと彼女は思い出した。
「寝てる途中で目が覚めたときに、カズちゃんの顔がめっちゃ近かったような気がするんだけど、なんでだろ?」
「ししし知らんっ! 夢でも見てたんじゃねーの?」
さきほどから和馬の様子がおかしいが、敢えてスルーすることにした。
「ヤな夢だなぁ」
苦笑してそう言い、スプーンを口に運び、テレビの画面に目を移した。
「…そうか」
あちらに気持ちが向いていたので、はるかは少しうなだれた彼に気づかなかった。

 

午後1時。
はるかは客の会計を受け、空いたテーブルの皿をまとめてキッチンに運んだ。
それを流し台に置くと、優が店の電話の子機を差し出した。
「店長から電話だよ」
「あ、ありがとー」
返答しながらそれを受け取り、不吉な予感を持ちながら受話器に耳を当てた。
「お電話代わりました、高橋ですー」
『梶原だ。 お疲れ様』
彼の独特の低い声が反対の耳に抜けていくように聞こえた。
「お疲れ様です。 なんか用ですか?」
『…冷たい言い草だな。 坂口が原因不明の頭痛で休みたいそうだ』
「そうですか」
そりゃあんたが灰皿なんかで殴るからだ、と言いたい気持ちを抑え、最低限の返答だけをした。
『そこでだな、代わりに午後も続けてお前に出てほしいんだが』
「…私のときは代わってくれなかったのに、ですか?」
『まぁ、あの時は本当にそんなことになってるなんて思わなかったからな。 頼むよー。 それなりの残業代は出すからさ』
その言葉に、意思が軽く揺さぶられた。
「そんなこと言われても…」
『それじゃ、お願いなー』
「え、いや。 ちょっと…!」
『ツー、ツー、ツー、ツー…』
「……………」
一方的に押し切られたが、まあ仕方がないか、と思って終話ボタンを押し、子機を充電台に戻した。

 

午後9時。
平日にも拘らず、店内は満席だった。
はるかは空いた皿をキッチンに置き、皿洗いにひとこと声をかけ、ホールに戻っていった。
「恨むぞ、野獣…」
誰にも聞こえないよう、そう小さく呟き、三人の客が居るテーブルに向かった。
「お待たせしましたー。 ご注文をどうぞ」
「生中3つ」
グループ中で最若年と思わしき男が空いたジョッキを集め、はるかの前に置いた。
「あ、恐れ入りますー」
「それと、カルビ。 …二人前くらいでいいっすよね?」
最初の男より半周りほど年上の男は中年に確認した。
「ああ、そうだな。 それから」
中年は言葉を区切った。 その四半秒後にいままでの注文に対する端末の操作を終えて、顔を上げた。
「はい」
「お姉ちゃんがほしいな。 一緒に飲もうや」
この手のことはよくあるので、受け流すように営業スマイルを作った。
「それは承りかねますっ」
そう言い、端末の送信ボタンを押した。
「課長、ダメですって」
「アハハっ、ごめんねー」
「いいえ。 では、失礼しますー」
エプロンの前ポケットに端末を収めながら後ろを振り向いた。
「はるかちゃん、3番テーブルお願いー」
キッチンに戻る途中の優は彼女にそう言った。
了解し、息つく間もなく注文をとると、その隣のテーブルから声がかかる。
それにも応答し、ようやくキッチンに戻った。
「なんだってまた、こんなに混んでるんだろう…」
「さぁ…?」
優も軽くため息をひとつついた。
「これ、9番ね」
その声とともに、ビールとカルビの乗った盆がテーブルに置かれた。
「あ、はいはいー」
それを手に取ると、再び戦場へと赴く。
指定のテーブルに到着し、お待たせしました、と言いながら注文の品を並べていった。
最若年の男はビールを各々の前に置いた。
「ご注文のお品はお揃いですね?」
乗せているものがなくなった盆を手前に持ち、そう言うと、中年が身を乗り出した。
「いや、お姉ちゃんがまだ」
そう言いつつ、手招きをしている。
「課長…っ! …すいませんね」
真ん中の男は困惑顔を浮かべ、中年を手で制しながらはるかに軽く頭を下げた。
「で、では、ごゆっくりとどうぞ…」
これには、接客に慣れているはずの彼女も失笑を禁じ得なかった。

 

午前1時半。
帰ってきた梶原に文句を言ったり、バイト仲間と談笑しているうちに帰りが遅くなっていた。
心持ち早足で岐路についていたはるかは、背後からの足音に気づいた。
足を止め、振り向いてみる。
「…カズちゃん?」
そうであってほしい、との願いを含ませ、背後の人間に声をかけた。
だが、期待通りにはならなかった。
「残念でしたァ」
そこには、先ほどの中年が居た。
「だーれだ、ってやる前に答え言っちゃうんだねェ…。 お姉ちゃん、注文したものがまだだよ」
「承りかねる、って言いましたよね?」
不快感を顔に反映し、そう言った。
だが、男は聞く耳を持たない様子でこちらに歩み寄ってきた。
「今度はもっと気持ちいいことしたいなぁ…」
後ずさりをしながら、今度は、という言葉を怪訝に思い、少し思考を巡らす。
すると、男はポケットから棒状のものを取り出し、指先でその部品をスライドさせた。
『カチカチカチッ』
その音とともに、少し長くなったそれは街灯の光を怪しく反射した。
はるかは四日前の事件を思い出し、びくっと身を硬直させた。
「…まさか……?」
「ヒヒヒヒヒ…。 思い出してくれた?」
「っ!」
声にならない声を漏らし、踵を返して走り出した。
「鬼ごっこをする時間じゃないよー」
半笑いしながらそう言い、男も走ってくる。
男との距離は、決して遅くない速度で縮まっていく。
少しでも間隔をあけようと急転回し、丁字路を曲がった。
だが、中年とは思えない反射神経で追従され、それは逆効果になってしまった。
不意に右肩を掴まれ、それを振り払ったが、その勢いで転倒してしまい、ごみステーションに堆く積まれたゴミ袋の山に身が投げ出された。
「おやおや、大丈夫かい?」
痛みを堪え、男を睨み付けて再び逃げる体制をとった。
「……それ以上ボクから逃げると…。 ヒヒヒ。 殺しちゃうよ?」
男は、カッターの刃をはるかに向けた。
「ボクにとって、拒絶する者を殺すのは他愛もないことなんだよ」
そう言い、刃の背でぴたぴたと頬に触れる。
「このカッターはね、2人ほど人を殺めているんだ。 まぁ、ボクを拒絶したから当然の結果なんだけどね」
はるかは、身動きが取れなくなっていた。
「それじゃあ本題ね。 まずは気持ちよくしてあげるよ」
男は、おもむろにスカートの中に手を入れた。
「ちょっ…! やめっ!」
侵攻を防ぐため、足を閉じて裾を押さえた。
「んー? 気持ちよくなりたくないのかなー?」
カッターを近づけつつ、力ずくで彼女の股間に手を触れようとする。
「あっ! て、ていうか、俺、男なんだけど…?」
男は、ぴくっとその動作を止めた。
「…本当か?」
「そうそう。 よく間違われるんだ」
誤魔化せたかと、少し安心したはるかは全身に込める力を少し緩くした。
「じゃあ、確かめないとねぇ」
そう言い、一気に腕を押し込まれ、男はショーツを引っ掴んだ。
「だっ、ダメだって…!」
抗議の言葉を無視するように、掴んだそれを引っ張った。
ぶちっと音とともに、容易に取り払われた。
「ん~?」
手中に入ったショーツを男はまじまじと眺めた。
「男なのに、女の子のパンティーを穿いているのかな? これは中身も確かめないと」
そう言い、スカートを引き上げようとする。
「やっ! こらっ、やめ…!」
「静かにしてねー。 邪魔が入るからさ」
男は、持っていた彼女のショーツを口に押し込んだ。
「!? ぅぐ!?」
不意を突かれた彼女はスカートを抑える力を緩めてしまった。
それを計らったように男は裾をめくった。
「あんれ~? 男に付いてるはずの物がないよ~?」
「……っ!」
「気持ちよくしてあげるよ」
男がそう言いながら、恥部に指を這わせると、はるかの身体は反射により微痙攣した。
その反応を男は勘違いし、興奮を高めた。
「ハァ、ハァ…。 胸も見せてね…」
カッターの刃先が顔に向けられたまま、上着のボタンが外されてゆく。
成す術もなくすべてのボタンが外され、ブラジャーを引き上げられ、それに引っかかった胸がぷるんっ、と揺れた。
「かわいいオッパイだねェ。 お味はどうかな?」
男は、それを掴み、先端を吸った。
得体の知れない虫が這っているような錯覚を覚え、はるかの背筋が凍った。
「そんなに感じちゃって…。 やっぱり、男だって言うのははるかちゃんの妄想だよ」
「ぅぇ…?」
口にショーツを詰められたはるかは、うまく言葉を発することができなかった。
「男のはるかちゃんなんて、存在しないんだよ。 こーんなにかわいいのに、何でああいうことを言うのかなぁ?」
その言葉に、ぴくっと身を震わせた。
「もう我慢できないよっ。 いいい入れるね?」
「ぅむぅ!? ぅうう!!」
「あれ? ぜんぜん濡れてないね。 仕方がないなぁ、舐めてあげよう」
男は恥部を舐め始めた。 その感触が気持ち悪くて、はるかは身を捩じらせた。
「ん~、かわいい反応だねぇ」
窒息しそうな圧力で顔を埋めながら舐め、そこが唾液でベトベトになると、顔を離してぷはっと息を吐いた。
「充分濡れたね。 入れるよ、入れちゃうよ?」
いきり立ったそれを、はるかの股間にあてがい、腰に力を入れた。
「うぅ!! ぁうぅぅ!!」
「ふぉぉおおぉぉぉ…」
情けない声を出しつつも、徐々に侵攻してくる。
途中の引っかかりで、男は更に力を込めた。
「っ!? ん~~!! ぅむんぅぅううぅ!!?」
破瓜の痛みで、はるかは悲鳴をあげた。 それが止む前に、男のモノはすべて飲み込まれていた。
「ハァハァ…。 でかい声はダメだって…。 どうしたのかな?」
そう言いつつ、男ははるかの口に詰まっていたショーツを取り去った。
「ちょっ…痛い…。 抜けよ…、抜いてよぅ…」
「痛い。 痛い? なんでかなー?」
男はそういい、接合部を見た。
そこからは、少量の血液が流れ出ていた。
「はるかちゃん、処女だったの? ねぇ、ボク、初めての男なんだね?」
「…っ!」
はるかは、男から目を逸らした。 同時に、敢えて無視していた男の言葉が頭を過ぎった。
(…男だった俺は存在しない……?)
「誰にも侵されたことのない領域を、ボクは…、ボクは…っ!」
(こんな男に犯されて……。 これってまるで、女そのものじゃねーか…)
「おおぉぉぉぉおおおぉぉおおっ!!」
(じゃあ、今までの俺って……なんだったんだろう…?)
「ハァハァハァハァ!! はるかちゃんの処女ーー!!」
男は激しく腰を動かし始めた。
「やっ…! 痛っ! やめろっ!」
「ぁぁ、出る、出るぞぉっ!」
そう言い、刺さっていたモノを乱暴に引き抜き、はるかの口に押し込み、後頭部を押え付けた。
「むぐっ!?」
やがて、激しい興奮により、僅かな時間で男は絶頂を迎えた。
「あぁぁぁ…。 出ちゃったよー。 ほら、飲んでね…」
はるかは首を横に振って抵抗し、精液を口に溜めていた。
「飲めって…」
男は、はるかの頬にカッターを突きつけた。
刃は少し肌に当たっている。
はるかは観念し、口の中にある精液を飲み込んだ。
「全部吸い取ってきれいにしてね」
「………」
抵抗すると刺される恐怖心から、それに従わざるを得なかった。
「ぬぉぉぉぉ…」
吸いきると、男は彼女の頭から手を離し、モノを引き抜いた。
最後に出てきた体液は、それまで以上に生臭く、はるかは嚥下反射を堪え切れなかった。
「うぇぇぇ…、気持ち悪い…」
「じきに慣れるさ。 じゃ、もう一回行くよ」
男は、既に回復していた。
それどころか、モノをさきほどより強くいきり立たせていた。
「やぁ…、もぅ、やだぁ、ょぅ…」
のどに物がつっかえる独特な感覚により、彼女の発する声は弱々しくなっていた。
「ほら、また入っちゃうよ、ほら…、ほらぁっ!」
抗議の声を無視した男はそう言い、興奮状態のまま、愛液が殆ど分泌されていない彼女の膣内に無理やり挿入を試みる。
「やっ!? 痛っ!!」
拒絶を意味するその悲鳴も、男にとっては興奮を助長するだけのものになっていた。
「大丈夫。 二回目以降は気持ちいいから」
「そっ、んなわけっないだ…ろっ…!」
「はるかちゃんって、ボーイッシュなんだね…。 ハァハァ…そこもかわいいよ…」
何を言っても聞いてはいなかった。
はるかは、言葉を発する気力も、痛覚によってかき消されていた。
(だれか、助けて…)
「かわいいよ、はるかちゃん、かわいいよぉぉぉっ!」
(誰でもいいから、通りかかって…!)
そう願い、丁字路の方を見続けた。
「ぉおう、出るっ、また出るぞぉ!」
男の腰の動きは、また更に激しくなった。
「今度は膣中に、出…おぉぅ……」
情けない声とともに、今度は動きを鈍くした。
緩急の激しい男の動きを不審に思い、正面を向くと、男は恍惚とした表情を浮かべていた。
モノは、刺さったままだった。
「ふぉおぅ…。 膣内に、出しちゃったよ。 フフフ…」
「ぅえ……?」
「ボクの子供、できちゃったァ…」
(こんな男の子供が…お腹に……?)
はるかは咄嗟に、下腹部を押さえた。
「女の子だといいなァ…。 ね、はるか」
じわじわと、嫌な実感が襲ってくる。
「ぇ…、ゃ、や、だぁ…」
視界が歪んだ。
目尻に涙が溜まっていくのがわかる。
「はるかは男の子の方がいいのかい? じゃ、もう一回しようか」
「やだ、やだよっ!」
「も~、はるかったらツンデレなんだから」
そう言い、男はまた腰を動かし始めた。
(誰か、助けて…。 誰でも…、そう、カズちゃん。 家近いよね?)
「ぅおおぉぉぉ、はるかの膣内になら、何度でも出せるぞぉ!」
(ここ、帰り道じゃん。 早く、通りかかって…!)
(助けてよ…)
(早く…)

 

和馬は、坂口とともに大通りを歩いている。
「あん?」
ふと、そう言い彼を見た。
「どうした?」
「いま俺のこと呼ばなかったか?」
「いや? なんで」
ふむ、とあごに手を当てて唸った。
「そうだな。 お前が『カズちゃん』なんて呼んだら殺してたわ」
「なんだそりゃ」
和馬はそっぽを向き、こめかみを掻いた。
「気にするな。 それより、深山って酒弱いんだなぁ」
「ああ、昔からだ。 ていうか、酒席にはあんまり参加しないんだけど、今日は珍しいな」
「そうなのか…。 …んじゃ、俺、こっちだから」
そう言い、住宅街への曲がり角を指差した。
「おぅ。 んじゃあな」
「あいよ」
軽く別れを済ませ、各々別方向へと進んで行った。
和馬は、帰ったらすぐに寝るような行動予定を練りながら住宅街の塀の間を歩いていく。
やがて、最後の曲がり角を曲がった。
そこからほどない距離のごみステーションに、人影があった。
どうせ酔っ払いのサラリーマンが寝ているものだろうと思い、通過しようとした。
だが、流し目で見たその風貌はどうやら女性である。
こればかりは看過できなかった。
「あの、大丈夫ですかー?」
そういいながら近づき、揺すって起こそうと肩を掴もうとした。
が、彼女の目は既に開いていた。
そして、その顔には見覚えがあった。
「……高橋?」
名前を呼ばれた彼女は、光を宿していない瞳をこちらに向けた。
「カズ、…ちゃん……」
酔いが一気に覚めた。
「おい…っ! 高橋なのか? …っ、何があった!?」
「…いよ……」
「え?」
ぴくっと介抱しようとした両手が止まった。
「遅いよ………。 遅すぎるよ……」
「高橋…」
自体が把握できぬまま、両肩を掴もうと腕を伸ばした。
「いやっ!」
また、その両手が止まった。
「……来ないで…」
完全な拒絶。
自身の両肩を抱き、すすり泣く彼女を前に、和馬は黙って携帯を取り出し、少し離れた場所で119番通報をするしかなかった。

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