晴輝は頭の中を整理した。
	あの薬を飲んで、風邪の所為で頭が痛くなって、寝て、起きて、寝て、大谷が来て、起きて、こうなった…。
	「何でお前もこうなってないんだよ?」
	晴輝は声と不釣合いの口調で台詞を吐く。
	「何で俺がそうならなきゃいけないんだよ…」
	「いや、薬の影響だろ? これ」
	「あー、そういうことか。 じゃあなんで俺がそうなってないんだ?」
	「そうだよー、何で俺だけなんだー?」
	晴輝は頭を抱えた。その前で、和馬はうーんと唸った。
	「お前さ、まず『俺』ってやめない?」
	「あぁ? なんでだよ?」
	「いやさ…」
	和馬はこめかみを指で掻き、言葉を続けた。
	「声と口調がすげぇ合って無いぞ」
	「そうだなぁ…。 じゃあなんて言えばいいんだ?」
	「たとえば…、あたし、とか」
	「うえぇ、お前がそれ言うと気持ち悪いな」
	「うるさい黙れそれ以上物言うと殴るぞ」
	間髪居れずに、早口で言う。
	「でも、それハズいぞ…」
	「じゃあ、僕とかでいいじゃん」
	「まぁ、それでいいか…。 『僕』なんて何年ぶりに言うんだろ」
	晴輝は苦笑しながら言う。そして、和馬は「あー」と前置きをして、
	「あと、『お前』ってのもやめ」
	と、言った。
	「あー、そうだなぁ…」
	「苗字でいいぞ」
	「大谷」
	意味もなく名前を呼んでみる。
	「…くん、とか付けない?」
	「えぇ…? 嫌だ」
	「あっさり言うなよ…」
	晴輝は「あー」とか「うー」とか唸りつつ考えた。思いつき、あっ、と声を漏らした。
	「お兄ちゃん」
	「な、なんでだよ!?」
	「お兄ちゃん♪」
	「不許可っ!」
	「マジかよ…。 いいと思ったのに」
	少しの間、また考え込む。
	「カズちゃん、とかは?」
	「……っ、ダメだ。 却下っ!」
	和馬は顔を伏せた。
	「えー、なんで? いいじゃん『カズちゃん』」
	「ハズいっ!」
	下がった頭を両手で掻きつつ、和馬は言った。
	晴輝は、戸惑いつつも、この状況を楽しんでいることに気がついた。
	「うん、じゃあそれに決定な」
	「いや、だからさ…」
	「そうそう、名前はどうしよう? カズちゃん」
	「その呼び方はやめろって…。 名前ねぇ、適当に「はるか」とかでいいんじゃね?」
	もはやどうでもいいように和馬は答える。その回答に晴輝はまんざらでもないような顔をした。
	「うん、いいね、それ」
	「いいのかよ…。 すごい適当だったんだぞ」
	「ま、この場限りのようなもんだし」
	だがここで、晴輝、いや、はるかは重大な問題に気がついた。
	「め、免許証!」
	財布からそれを取り出すと、はるかは肩を落とした。
	「ま、当然変わってないよな…」
	「戻るまでの間運転できねぇんじゃん」
	「住民票とかもだよな…。 長くなったらどうしよ…」
	深く考えた。考えたが、既に常識の範囲外のため、解決策は思いもつかなかった。
	仕方がない。開き直るか。
	はるかは、そう吹っ切り、一度、咳払いをした。
	「カズちゃん、服、買いに行かなきゃっ♪」
	「お前…どんなキャラだよ…?」
はるかは、風呂場に居る。寝汗を流すためだ。
	お湯の蛇口を捻り、体にシャワーのお湯をかける。
	お湯が温かくなってきたところで、頭を洗う。普段使わないリンスもつける。
	…腐ってなければいいけどな。
	その心配とは裏腹にいい香りが鼻をつく。さらさらの髪に指を通す。髪の長さは肩より少し上ぐらいまで。
	続いて、体を洗う。いつもの調子で強く擦ると、痛かった。
	こんどは優しく、撫でるように擦る。
	「ぷっ…!」
	なんだか、可笑しかった。自分なのに、何を気遣っているんだろう、と。
	しかしこの体、胸が無いな。
	普段ぶら下がっているものも…あるわけないか。
	全身を洗い終え、体全体をシャワーで流す。
	脱衣室で水気を落とし、タオルで体を拭く。
	そして、衣類ケースから服を取り出す。
	「…あー、でかいな、こりゃ……」
渋谷。
	二人は電車でここまで来た。はるかは、取り敢えず男のときの服を着てきた。だが、それはブカブカしすぎて、視線を集めていた。
	「どうしよ…、なんか恥ずかしい…」
	「しゃーねぇだろ。 これから買いに行くんだから」
	「だねぇ…。 あっ!」
	はるかは、自分のズボンの裾を踏んで転びかけた。
	「短パンとか無かったのかよ…?」
	「あれは長さが微妙だよ…」
	「そういえば、そうだよな」
	和馬は、視線を人ごみの中に移した。いつものように進むことだけを考えて歩いた。
	しばらく歩くと、左腕に妙な感覚を覚えた。ふと、左に目をやる。
	左腕には、はるかの両の腕が絡みついていた。
	「もー、カズちゃん、歩くの早いよー」
	風が吹く。はるかの髪がなびく。その動きに合わせて、いい香りが和馬の鼻をつく。
萌え。
	………違う違う違う違う違う!!
	「だーっ! はは、離れろ!」
	和馬はそれを振りほどいた。
	「えへへー、萌えた?」
	はるかは舌を少し出し、からかうように笑った。
	「も、萌えるかよ…」
	ふいっと横を向く。
	「つーかお前、楽しんでるだろ?」
	はるかはうーん、と唸り、
	「せっかくこうなってるんだし、楽しまなきゃ損だって」
	と、答え、再び和馬の腕に絡みついた。
	「やめろって言ってるだろーが…」
	そう言うが、今度は振りほどいたりはしない。少しはうれしいのだ。
それから、少し歩いたところで和馬がふと、足を止めた。
	「ここでいいんじゃねぇの?」
	「あぁ……じゃない。 うん、そうだね」
	二人は店の中に入っていく。そこで適当に、二、三着を選ぶ。
	元に戻るだろうから、こんなもんでいいだろ。
	はるかはそう考えた。と、横から和馬が呼ぶ。
	「おい、これ着てみろよ」
	彼が手にしているのは裾がかなり短いスカートだった。
	「なっ! そんなん着れるかぁ!」
	その声で周囲の視線を集めてしまった。
	「ばーか。 お前、自分の体、もう一度鏡で見てみるか?」
	「…遠慮しとく」
	はるかは小さくなっていた。よほど恥ずかしかったのだろう。
	さっさと会計を済ませ、ここは出て行くことにした。
「まったく…、すごい恥ずかしかったんだからね…」
	はるかは少し頬を膨らませて言った。
	「いや、お前が悪いんだろ」
	「むぅ~…」
	何か、仕返しを考える。和馬に悟らないように辺りを見回した。すると、一件の店が目に入ってきた。
	…これだ。
	そう思い、はるかは和馬の腕を引く。
	「ねね、あそこ行こう、あそこ」
	「あぁ? どこだ…、って無理、俺には無理っ!」
	彼を誘った先は、取り敢えず必要であろう、下着の店だ。
	「まぁまぁ」
	そう言い、半ば強引に店へと押し込む。もっとも、こんな体じゃなかったら俺でも拒絶するが。
	店内に入ると、色とりどりの下着が並んでいた。客は、彼を除くと全員女性だ。
	「ねーねー、カズちゃぁん、どれがかわいいと思うー?」
	「ば、ばかっ。 自分で選べっ! つーかキャラ違うしっ!」
	赤くなった顔を和馬は右手で覆い隠している。そこに、店員が来た。
	「いらっしゃいませ。 どういうのをお探しですか?」
	「うーん、そうですね…。 無難なのがいいです」
	「無難なものですか。 あら? その方は彼氏さんですか?」
	店員が、逃げないように腕を固められている和馬に気づいた。
	「はい、そうなんですー」
	「なっ!?」
	和馬が、ばっ、と抗議の目をこちらに向けた。
	「そうなんですか。 じゃあ、あなたが選んで差し上げればいかがでしょう?」
	店員は、和馬に微笑みかけ、そう言った。
	「彼女さん、喜びますよ」
	「はぁ…。 そんなもんなのか?」
	「うん、そうだよ。 だから、ね?」
	「…どんなの選んでも、怒るなよ」
	和馬は諦め、そう言った。そして、二人は店内を歩き回る。
	ひとつのハンガーを取り、和馬ははるかにそれを差し出した。
	「これなんかいいんじゃねぇ?」
	「あー、かわいいー。 …ん?」
	はるかの目に、ぱっと映ったもの。それを手に取った。
	「カズちゃぁん、これはー?」
	派手なTバック。
	「ぐぁ…、やめとけって…」
	直視できないのか、和馬は目を逸らした。そこでふと、思い出したかのように、
	「そういやお前、サイズわかんの?」
	と、ハンガーを戻しながら聞いた。
	「あ…」
	適当に買っても仕方がないので、採寸してもらうことにする。はるかは店員の方へ向かった。
	「すいません、採寸お願いできますか?」
	「いいですよ。 では、こちらにいらしてください」
	和馬は、試着室に背を向け、腕を組みながら立っている。背後からは、終始会話が聞こえてくる。
	「では、まず肌着を脱いでくださいね」
	「え、なんか恥ずかしいですよ…」
	「ちゃんとしたサイズが測れないですので。 さぁ」
	「あ、はぃ…」
	布が擦れる音がする。
	「それじゃあ、腕を上げてください」
	「はい。 …ひあっ!?」
	「あら、冷たかったですか? すいません」
	「い、いえ…」
	「A70、ですね」
	「うーん、小さいですよねぇ…」
	「そんなことないですよー。 形もいいですし」
	「えっ、そ、そんな…」
	その会話を聞きながら和馬は、うーん、と唸り、心の中で呟く。
	…生殺しですか、これは。
夕暮れのセンター街を二人は歩く。
	「お前、結構センスいいじゃん」
	紙袋を抱えたはるかは、小声でそう言った。
	「キャラ戻ってるし…」
	「ありゃ演技だ。 接客業なめんなよ」
	「同じバイトじゃんか…。 あ、そういえば、明日シフト入ってるけど、どうすんのよ?」
	「…あっ」
	「休み入れてもらうしかなくねぇ?」
	「お前、代われよ」
	「いや、その気持ちは山々だけど…。 明日俺も入ってるんだよ」
	「あぁ、そうだったか…。 じゃあ、帰ったら店長に電話で聞いてみる」
	話しているうちに駅まで着いた。切符を買い、改札を通る。ホームに行くと、ちょうど電車が来ていた。それに乗り込み、はるかが言う。
	「…満員だね」
	「あぁ…」
	うんざりした様子で和馬はそれに答えた。
数十分経ち、二人はそれから解放された。
	陽は殆ど沈み、夜になっていく。分かれ道まで二人で話しながら歩き、その分岐点で、和馬は立ち止まる。
	「そいじゃ、また明日」
	「あぁ。 じゃあな」
	「休み、取れるといいな」
	心配そうに言う。
	「だな。 これはシャレにならないし…」
	はるかが言い終わると、和馬は彼女に背を向けて、右手を上げ、自宅へと歩いていった。
	「…ほんと、シャレにならねーって…」
	呟き、歩き出す。
	少し歩いたところで、後ろから影が伸びてきた。はるかが、ふと振り返ると、そこには和馬がいた。彼は、後頭部を掻きながら言う。
	「…原付、置きっぱなしだった」
はるかの家の前で、二人は今日の別れを済ませた。部屋に戻ったはるかは、早速店に電話をかける。応答したのは、店長だった。
	「もしもし、高橋ですけど」
	『あー、はいはい。 どうした?』
	声が低く、しかしよく通る声。
	「あーっと、明日、休ませてもらえないスかね?」
	少しの間。途中、うーん、と聞こえた。
	『ダメ♪』
	明るい声で言う。はるかは、ぐぁー、と言い、
	「本当に無理っすか?」
	と、もう一度聞いた。
	『正当な理由がないとね』
	諭すように言われたが、正当な理由なら、ある。
	「朝起きたら女になってますた」
	『寝言は寝てから言え。 切るぞ』
	「あ、ちょ、ちょっ!」
	『ツー、ツー、ツー、ツー…』
	…ストレートすぎたか…。
	発言に後悔しつつも、明日現実を突きつけようと決めた。今日は歩き疲れたので、少し早いが寝ることにする。
	信じてくれるだろうか、という不安も、眠気によってかき消されていた。
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