鳥のさえずりが聞こえる。今が朝ということをはるかは知った。
…起きるか。
布団から身を起こし、まどろみの時間を楽しむ。だんだんと目が覚めていく。やがてはるかは起き上がり、洗面所へと向かった。
歯ブラシを取ろうと、鏡の方を向く。一瞬、自分以外の人間がそこに立っている気がし、一歩引く。まだ、自分の今の姿の自覚がないのだ。
歯ブラシを動かしながら、新聞を取りに行き、部屋に戻る。取ってきたそれを広げ、記事に目を通していく。
姿は変わっても、日常染み付いた動作は忘れないものだ。
ある一部を除いて。
「……………」
はるかは便器の前に立ち尽くす。しばらくして、思い出す。
その場で半回転し、下半身の衣服を完全に降ろし、便座に座った。
用を済ませ、手を洗ったところで、はるかは空腹に気づく。
普段は朝食をとらないが、今日はその準備をすることにした。
冷蔵庫を開け、あるものを確認する。
卵、キャベツ、バター、ウインナー、コーン、きわどいピーマン、ベーコン、しなびたアスパラ、芽が突き出た玉ねぎ。
「…捨てろよ、俺…」
はるかは苦笑し、アレなものをゴミ箱に放り込む。
続いて、卵、ウインナー、そしてベーコンを取り出した。それらを適当な大きさに切り、熱したフライパンの上に並べる。火が通るまでの間、冷蔵庫の中に保存してあった米を電子レンジで温める。
調理が完了し、皿に盛る。それをテーブルまで運んでその前に座る。リモコンでテレビの電源を入れ、ニュースを見ながら食事をとった。

 

午後二時。
仕事が始まる一時間前に、はるかはバイト先の焼肉店に着いた。事務室の前へ行き、その扉を叩いた。
「開いてるよー」
中から店長が応答すると、はるかは扉を開け、中へと入っていった。
この店長、梶原 悟 (さとし) は、まだまだ若い。三十代前半といったところだ。
「……えーっと…?」
「あ、高橋っす。 昨日言いましたよね?」
梶原は額を押さえた。
「まったく、あいつは…。 君、妹さん?」
「いいえ。 本人ですよ」
あっけらかんと言った。
「…生年月日は?」
「1981年7月14日です」
「血液型は?」
「Aです」
「裏で俺のことなんて呼んでる?」
「野獣。 ……あっ」
梶原がため息をつく。
「しゃあない、信じてやるか」
この人はこういう、さばさばとした性格をしている。が、呼び名は癪に障ったらしい。
「…あとで覚えてろよ」
「すんません…」
「そのかわり」
梶原はぴしっと右手人差し指を立てる。
「仕事には出てもらうからな。 他の店から来たヘルパーとして」
「はぁ…。 それならいいですけど」

それからはるかは、今回こうなったいきさつと、これからのことを話した。

 

シフトの時間。梶原はこの時間に入る人全員の前に出た。
「あー、今日、高橋が来れないそうだから、他の店で働いてる妹さんの…」
はるかは、一歩前に出た。
「高橋 はるかです。 よろしくお願いします」
「…が、代わりに出るそうだ。 取り敢えず、あいつの代わりだと思ってこき使ってくれ。 それじゃ」
梶原は背を向け、事務所へと戻っていった。まだこの時間は客が少ないので、皆が集まってくる。
「今日休みなんでしょ? 大変だねぇ」
「あの野郎、こんなかわいい妹が居たなんて…」
「ぜんぜん似てないよなぁ」
男どもが口々に言う。はるかは、その攻撃をかわしていく。
「いいえ、高熱出しちゃったんで、仕方がないですよ」
…治ったけどな。
「あれ? 話してなかったんですかー?」
…俺ぁ一人っ子だ。
「よく言われます」
…性別が違えばそりゃ当然だろ、馬鹿。

 

午後六時。最も混み合う時間だ。
次々と注文を受け、それを運んでいく。
「ここ、お客さん多いですね…」
その合間に、はるかはそう、仲間の一人に言った。
「ビジネス街だしね。 仕事帰りの客とか多いんだよ」
彼は、疲れた様子でそう答えた。
「へぇ、なるほどー…」
「すいませーん」
ホールで、男性客が手を上げて呼んでいる。
「はい、ただいまお伺いしますー」
と、叫び、はるかはその元へと向かった。
「お待たせしました」
「カルビ二人前と、ビール中、四つね」
「はい、ありがとうございますー」
注文内容を端末に入力する。
「お姉ちゃん、新しい人?」
その声に、一瞬遅れてはるかが顔を上げる。その人は常連の中年男性だった。
「あ、いいえ。 今日一人出れなかったものですから、他店から手伝いで来ました」
「そうかー。 もうベテラン、って顔だもんね」
「いいえー、僕なんてまだまだですよ」
「いやいや。 じゃ、がんばってね」
「ありがとうございます」
はるかは一礼し、キッチンへ戻った。

 

午後十時。客が少なくなるころだ。
こうなると、後は惰性で時間は進んでいく。
雑談をしたり、余っている肉を食らったり。ときどき、客に酒を運ぶ程度だ。
「そういえば、はるかちゃんって、いくつ?」
坂口 明がはるかに声をかけた。えっと、と先に言い、虚偽の年齢を考えてから、
「今年で二十二です」
と、答えた。
「そっかー、お兄さんと一つ違いなんだ」
坂口はそう言いながら、ビールをあおった。
「え…、飲んでいいんですか…?」
「ダメだけどね。 たまーにやってる。 大丈夫、金は払ってるから」
「そう言う問題じゃない気がするんですけど…」
そう言い、はるかは苦笑した。が、次の瞬間、驚嘆の顔に変わった。
「あれ? どうしたの?」
「いえ…。 お、お皿洗ってきます…」
坂口の後ろから変なオーラが漂う。まさか、と思い、彼は後ろを振り返った。そこには、引きつった笑顔の梶原がいた。
「事務所、来いや。 今すぐっ!」
梶原はそのままの表情で言った。
ばーか。
引きずられて出て行く坂口を、はるかは心の中でそう言い、宣言通り皿を洗いながら見送った。
「ほんと、どうしようもない馬鹿だよな」
その横で、同じく皿を洗っている深山 忠志が言う。
「でも、面白い人だと思いますよ」
はるかは心にもないことを言う。
「そうかねぇ? みんな、あいつのことを『馬鹿一号』って呼んでるよ。 二号はいないけど」
はるかは、くすっと笑う。と、奥から叫び声が聞こえた。深山は苦笑し、
「ホールに聞こえたっつーの…」
と言った。そして、皿の水気を振り落とした。
「それじゃ、後は俺がやっとくから、休んでていいよ」
「あ、すいません。 じゃあ、お願いします」
そういえば、ここって皿洗いは男の仕事っていう暗黙のルールがあったんだよな。
そう思い、タオルで手を拭き、壁際に移動する。
「助かったよ、今日は」
声のしたほうを向くと、和馬が立っていた。
「いいえー、勝手が違うのでちょっと戸惑っちゃいましたし…」
「問題なかったよ、全然」
そう言うと、彼は小声になった。
「明日だな」
「ああ」
はるかも、それにあわせて小声になる。
「朝、俺が行くから」
「わかった」
さりげなく打ち合わせをする。と、周りから野次が聞こえた。
「おい、大谷。 抜け駆けは許さんぞ」
「そうだぞ、いくら高橋の友達だからって」
「なんだ、おめーら…」
和馬はあちらへ向かっていった。と、その代わりのように大橋 絵美がはるかの横に立った。
「あたしたちのこと差し置いて…、じゃなくて。 迷惑でしょ、あいつら。 見境がなくて」
「そんなことないですー」
「女だったら誰でもいいのよ。 ね、はるかちゃん」
何気に気になる言い回しだった。が、それは気にしないことにする。
男どものドタバタを見ながら時間が過ぎていった。

 

午前零時。
この店の閉店と同時に、はるかたちのバイトの時間が終わった。
「お疲れ様ですー」
はるかは皆にそう言い、更衣室へと向かった。

「ふぅ…」
はるかは更衣室でため息をつく。自分を作るのに疲れたのだ。そこへ一人、相田 優が入ってきて、言った。
「ねぇ、高橋 “くん”?」
「あ?」
割と仲がいいので、いつもの調子で答えてしまった。はるかは心の中で、違う、と言った。
「…すいません、なんですか?」
言い直す。が、先ほどの反応を逃さなかった。
「いや、わかってるよ。 高橋 晴輝くん」
いやな笑みを浮かべて、優は言った。はるかは、顔の血の気が引いていくの感じた。
「癖とか見てるとねー。 分かるものだよん」
優は、一呼吸置いた。
「で、それ、どうなってるの? 見た感じは女の子だけど」
言い訳を考えた。が、次の瞬間、彼女は襲い掛かってきた。
「…剥いちゃえー」
取り押さえられ、一枚一枚剥がされていく。
「わっ、ちょっ、やめっ!」

そうして、はるかはパンツ一枚の姿となった。恥ずかしそうに、胸を両腕で隠している。
「うーん…、胸もちゃんとあるし…。 何より背が小さくなってるよね…」
優がそう言う。
今更気づいたのか、と言う反論は胸にしまっておくことにした。
「あのさ…。 もう、服着ていい?」
「…いいよ。 帰り道で話聞かせてもらうから」
「はぁ…。 分かったよ…」

 

はるかは、これまでのことを、面倒がりながら優に説明した。その間、彼女は頷きつつ聞いていた。
「じゃあ、明日には元に戻るわけ?」
説明が終わり、優がそう聞く。
「それはわからない。 同じ状況の大谷はなんともないから、薬の所為じゃないかもしれないし…」
額を押さえつつ、天を仰ぐ。雲がちりばめられた、ぱっとしない夜空だった。
「戻ればいいね」
「うん、そうだな…」
優は吹き出した。
「高橋くん、口調がばらばらだよ」
笑いながら、そう言う。
「えぁ? あー、九時間もあれだったからな…」
ここで、二人は分岐点に来た。はるかは、立ち止まる。
「じゃ、俺、こっちだから…」
そう言い、小道のほうを指差す。
「あ、うん。 じゃあ、またね」
「ああ」
一言いい、彼女に背を向け、歩き出す。

 

明日の検査の時刻は午前十時。夕食を適当にとり、早めに寝ることにする。
明日で、この生活からも開放される。奇妙なこともあるもんだな、とはるかはシャワーを浴びながら思った。
細い胴。
華奢な腕。
張りのある二つの膨らみ。
はるかは、それらは自分に似合わない、と感じた。性格が角ばっているのに対し、今の体は曲線的。
でも、少し寂しい気もした。もう少し、遊んでみたいと。だが、頭を振り、それを否定した。
…この体は俺のものじゃない。
そう考えつつ、脱衣室へ出て、体を拭く。パジャマ代わりの、ぶかぶかなTシャツを着て、部屋に戻り、布団へと潜り込んだ。
目を閉じると、眠気は自然と訪れる。それに任せて、はるかは眠りへを落ちていった。

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