朝。時計は八時を指している。
洗面所で、はるかは鏡を見た。この体とも、今日でお別れ。そう思い、歯ブラシを手に取った。
玄関まで行くと、ちょうどドアをノックする音が聞こえた。
「高橋ー、起きろー」
和馬だ。はるかはそれ以外の人間でなくてよかった、と安心し、ドアを開け放つ。
「もう起きてるよ…」
「何だ…。 ほれ」
彼は新聞を手渡す。それを受け取りつつ部屋の中へと導いた。
座って、新聞を読む。その後ろで彼は頭を掻いた。
「どうでもいいけどさ…」
「あん?」
読むのを中断し、後ろを向く。
「その格好…、危険だ」
パジャマ代わりのTシャツと、パンツ一枚。その姿を指して彼は言った。
「あぁ、わりぃ」
そう言いつつ、首を戻し、先ほどのを再開した。
「…着替えろよ……」

 

新聞を読み終わる。それを畳み、立ち上がる。後ろを向くと、目のやり場に困っている和馬がいた。
「お前、なんか変だぞ」
そう言い、洗面所へと向かった。
口をゆすぎ、口元を拭く。そして、言われてしまったので着替えることにする。
はるかは、衣類ケースから青い半袖のカットソー、山吹色のイージースカート、そして下着を取り出した。
…最初は抵抗あったけどな。
そう思い、ブラジャーを着け、スカートに足を通した。

 

服を着たはるかは、台所に立ち、後ろを振り向く。
「飯食った?」
「あぁ? お前、食うの?」
和馬が不思議そうな顔をする。普段食べなかったことを思い出し、
「なんとなく、腹減ったから」
と理由をつけた。
「俺は、いら…。 いや、やっぱりもらうわ」
「わかった」
体の向きを戻しつつ、そう言った。冷蔵庫から卵とコーンを取り出す。その卵を割り、ボールに入れて、かき混ぜる。
「卵焼きか?」
「あぁ」
振り返らず、言う。

そうしてできた、皿に盛られた朝食をテーブルへと運び、和馬の反対側に座った。彼は、読んでいた雑誌を脇に置いた。
「お前、料理できたんだな」
「まあな。 こっち出てきて、自然と覚えてった」
そう言い、はるかはご飯を口に運んだ。和馬も、箸を取り、食べ始めた。
「お前、それ、朝飯だったとしても少なくないか?」
「あー…、仕方がないじゃん」
言われて、彼ははっとする。
「おぉ、そうか…。 悪りぃ」
「いや、いいよ」

食事が終わり、食器を洗い終わるころには、時計が九時と告げていた。二人は、することもないので早めに出ることにした。

 

事の始まりの街。新宿。
二人は、例の病院へ向け、歩く。
「ところであの薬、なんでおま…カズちゃんには効かなかったんだろう?」
外出モードへと口調を変更したはるかが言った。
「さあな…。 体質とかで片付けられる問題じゃないし…」
二人はうーん、と唸る。が、その思考も中断した。
「ま、いいや。 医者たちの説明を聞けばわかるしな」
そこで、目的地に到着する。中へと進み、エレベーターで四階まで上がった。そこには、三日前と同じように受付の人がいた。
「まだ早いですけど…、いいですか?」
はるかは遠慮がちに聞く。
「どうぞ。 お名前は?」
「高橋です」
受付は、名簿に目を落とす。
「はい。 えーっと…、……ん?」
彼は顔を上げた。
「失礼ですが、下のお名前は?」
「晴輝です」
「……はい?」

 

二人は、今のはるかの症状を説明する。医師たちは後ろを向き、談合を始めた。
「そんなこと、あり得ないでしょう」
「だから、入院させるべきだったんです…」
「住所は控えてあるから安心しろ」
それを聞き、はるかはその輪の前まで歩いた。そして、左手人差し指の腹を突き出した。
「それじゃあ、受付のときに書いた紙についた指紋と、これを照らし合わせてみてくださいよ」

 

数十分後、医師たちが戻ってきて、額を押さえながら言う。
「…参ったな、こりゃ…。 大きさは違うものの、パターンは完全に一致しましたよ…」
「で、治るんですか? これ」
はるかは強気な口調で言った。対して、医師は弱気だ。
「精密な検査をしないと…、なんとも言えないですね…」
「精密な検査、とは?」
「体が完全に女性かどうか、たとえばDNAなどです」
「その検査って、してもらえるんですよね?」
医師はこめかみを指で掻く。
「もちろんです。 ただ、こんな事例、初めてなんでね…」

 

その後、通常の検査に加え、体を構成する各部を調べていった。それには、三時間ほどかかった。
午後二時。二人は来た道を逆方向に歩く。はるかは、肩を落としながら言う。
「結果出るまで一週間ぐらいかかるってさ…」
「そうか…。 てか、あの薬の所為じゃなかったのか?」
「わからない。 それもそのときまでに調べておくって」
「それまでどうするんだよ…?」
はるかは、一枚の紙を和馬に差し出した。
「そうそう、こんなのもらったよ。 こんなの書くの初めてだ、って言われて」
その紙にはこう書かれていた。

診断書
患者: 高橋 晴輝
病名: 不明(症状:性転換)

「これを、どうしろと…」
彼は怪訝顔でそう聞いた。
「身分証明のときに使えってさ」
「なるほど…。 苦肉の策か…」
「あと、何かとご入用でしょうから、って、十万円もらったし…。 確かにお金は必要だけど…」
和馬は、ばっ、とこちらを向いた。
「何!? コンチキショウ、奢れ」
「何でそうなるんだよ!? てか、これやるから元に戻してくれ。 むしろ代われ」
そう言い、はるかは、彼が女性化した姿を思い浮かべる。
「うゎ…。 やっぱりいいや…」
「今、変なこと想像しなかったか?」

 

二人は、はるかの家で今後のことを話し合うことにした。和馬は一度家に戻り、着替えてから来た。
「で、まずバイトだけど…」
そう、和馬が口を切った。
「あぁ…。 あのまま突き通すしかないな。 少し恥ずかしいけど…」
「恥ずかしい? なんでよ?」
「相田にバレてる」
「えぁ? お前、喋ったんか?」
「…女の勘は鋭いっての、本当だったんだな」
はるかは、うなだれて言った。
「うわー。 大変だねぇ」
「棒読みで言うな…。 本当に大変だぞ…」
そっぽを向いていた和馬は、はるかに顔を向けて言う。
「なぁ。 口調、完全にあっちにしたら?」
「えー、ここでもか? あれ疲れるんだよな…」
「だから、疲れないように慣らしておくんだよ」
「それも、そうか…」
「じゃ、始め」
彼は、手を軽く叩いて言った。
「え、え? ちょっと待てよ。 心の準備が…」
「はい、カウント1」
「もう始まってるのね…」
そう言ったはるかは、もうひとつの問題を思い出す。
「あ、服。 あれじゃあ足りないなぁ」
「おぉ、そうだな…。 明日バイト始まるまで原宿にでも行くか?」
「そうだね」

 

それから、一時間ほど雑談をする。カウントはすでに二十を超えていた。そこで和馬は、空腹に気づいた。
「腹減ったな…」
「僕も。 何か作る? …あ、材料がなかったんだ」
「じゃあ買いに行くか…」
ここからコンビニやスーパーは遠い。和馬はバイクのキーを取った。
「何か、久しぶり」
そう言い、はるかも、掛けてあったキーとヘルメットを取った。

外に出て、和馬は止めてあるSRに跨った。
「あ、そっちで来たんだ」
はるかは、跨ったバイクを見てそう言った。
「あぁ。 何となくな」
そう言いながら、キーを回し、火を入れ、ダックテールのヘルメットを被る。その横で彼女は、
「ちょっと待ってね」
と言い、後ろを振り向いた。その姿を見て、思う。
細い脚。
さらさらの髪。
小さい体。
それを、後ろからぎゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られる。
そうすると、壊れそうで、でも、そうしたい。
…何を考えているんだ。
頭を振り、その考えを否定する。
ふと彼女に目をやると、駐輪場からバイクを引き抜くところだった。が、その足取りはふらついていた。
「あ、あれ…? ティ、TWってこんなに…重かっ…たっ…、あ、あぁー!」
ガシャン、と、それは倒れた。
「あぁぁぁああぁぁ!」
「…楽しそうだな」
ハンドルバーにひじを掛けて、頬杖をついて言った。
「楽しかねーよ…。 ステップがー…。 ブレーキレバーがー…」
「カウント26」
「うわ、容赦ないねぇ…」
和馬は、サイドスタンドを降ろし、彼女のほうへ歩く。
「…お前、しばらくバイク降りたら?」
そう言いつつ、倒れたバイクを彼女に代わって引き起こす。
「えぁ? なんでさ?」
そう言う彼女を後ろ目に、置いておいたバイクに戻りつつ、こめかみを掻く。
「いや、その…。 もし走ってるときに転んだりしたら…、そのきれいな顔とか、腕とか……」
恥ずかしくなり、台詞を中断する。
「えっ…?」
「と、とにかく! 取り回しのときにコカす奴なんか、道路に出せるかってんだよ!」
彼女は、その言葉に眉を立てた。
「な、なんだよ!」
が、それは次第に下がっていく。
「……それも、そう、だね…」
「ほら、ケツ乗れ」
「…うん」

 

夕暮れの道路を、二人を乗せたバイクは走る。和馬の後ろで、はるかは言う。
「ねぇ、カズちゃん」
「あん?」
「さっき、きれいな顔、って言ったくれたよね?」
「ちっ…。 聞こえてたのか…」
再び、恥ずかしさがこみ上げてきた。と、腰の辺りに圧迫感を感じた。
「なんか、不本意ながら嬉しかったよ」
「………」
「ありがとう」
背中に柔らかい胸の感触。頬をくっつけているのか、その感触もあった。
「や、やめろって…」
「なんでさー?」
風きり音の中で、和馬は小声で言った。
「…好きに、なっちまうだろ……」
「ん?」
「なんでもねーよ」
そのままの声の大きさで言った。
「え? 何ー?」
本当に聞こえてない様子だった。それに安心した和馬は、
「何でもねーって!」
と、叫び、アクセルを開ける。
「きゃっ! と、飛ばしすぎだよ!」
お構いなしに、速度を上げていった。早く目的地に着きたい一心で…。

トラックバック

このブログ記事に対するトラックバックURL:

コメント & トラックバック

No comments yet.

Comment feed

コメントする