はるかは、ゆっくりと目を開ける。時計は六時を指している。外はまだ薄明るい。
…ちょっと早いけど、起きよう。
そう思い、起き上がる。テレビのリモコンを取り、電源をつけた。
ゆっくりと、画像が表示されていく。放送されているのは、夕方のニュース番組だった。
「って、夕方の六時かっ!」
薄明るいのではなく、薄暗い、だった。

 

かなり遅い日課を終えたはるかは、トイレへと立った。
用を足し、秘部をペーパーで拭く。
…この動作にも何気に慣れちゃったなぁ…。
複雑な気分になり、ふと、下を見る。便器は、赤に染まっていた。
「うわっ! 血尿!?」
その赤は、今も滴り落ちている。それを見て、ようやく理解した。
…これが………せ、生理…?
「ど、どどっ…、どーしよー…?」
はるかは慌てて、そこをペーパーで押さえながら部屋へと戻り、携帯電話を手にした。
…誰か、いないかな…?
そう思い、電話帳をスクロールさせていった。

 

「ごめん…。 助かったよ…」
はるかは、優に電話をしてナプキンを持ってきてもらった。
「ううん、いいよー」
「ほんとごめん…。 こんなこと頼めるの、お前ぐらいしか思いつかなくて…」
申し訳ない気分でいっぱいだった。今まで男だった奴の元に、生理用品なんてものを持って来させるなんて。
「ねぇ、名前で呼んでよ」
「…えっ?」
「ほら、『お前』じゃなくて。 ね、女の子らしく♪」
まったく気にしていないのか、彼女はそんな提案をした。
「あ、あぁー…。 優…ちゃん…?」
「よくできました。 じゃ、これから必要なもの、買いに行こうよ」
「う、うん」

 

商店街の中。薬局の前で、優は足を止めた。
「そういえば、お化粧はしないの?」
「え? …うん、ちょっとね。 仕方がわからないから…」
それを聞いた彼女は、はるかの手を引き、店の中に入っていく。
「それじゃあ、あたしが教えてあげるよ」
「え? いいよ、そんな…」
「いいから、いいからー」
引っ張られて、化粧品のコーナーの前まで移動した。
彼女は、掴んだままの手をファンデーションのサンプルのところまで持ってくる。
「この辺かなー?」
そう言い、そのふたを開けて、はるかの手の甲に少し塗る。
「うんうん、これだね」
はるかは、成されるがままになっていた。

 

ひととおりの物を揃えて、二人はレジへと向かった。
それの会計が終わる。と、優は店員に聞く。
「すいません、お手洗い借りてもいいですか?」
「どうぞー」
店員は快諾する。
「じゃ、行こう」
優は再び、はるかの手を引いた。
「え? 僕はいいよ…」
「じゃなくてー」
引っ張られるまま、はるかは化粧室に入った。
割と広いそこで、化粧をしようというのだ。
「じゃあ、ファンデつけるから、目閉じて」
「う、うん…」
目を閉じると、トントン、と柔らかいものが目の辺りに当たる感触があった。
「ファンデは、塗るっていうか乗せるって感じでね」
「うん」
顔全体にそれをつけ終わる。続いて、先ほどよりも少々赤めのものを取り出す。
それを、ブラシを使って頬につける。
「最後は、口紅。 これは自分でできる?」
そう言い、彼女はそれを差し出した。
「たぶん…」
はるかは、それを受け取り、ふたを開けた。
「あ、塗るのは上唇だけね」
「え?」
「塗ったら、こうやって…」
彼女は、上下の唇を合わせる。
「下のほうにも塗るの」
「あぁ、そういえば女の人がやってるね」
「そうそう」
こうして、すべての工程が終わった。
「そんなに難しいものでもないでしょ?」
「うん、思ったよりは」
彼女は、化粧の終わったはるかの顔を眺めて言う。
「やっぱり、いいじゃない」
「そ、そうかな…?」
「うん。 素顔でも十分かわいいけどね」
「そ、そんなことないよ…」
はるかは照れて、右手を横に小さく振った。

 

二人は、商店街を歩く。はるかは、茶色い紙袋を抱えるように持っていた。
「いろいろとありがとう。 勝手が違うから、わからないことが多くて…」
「いいよいいよー。 困ったことがあったらなんでも言ってね」
「それじゃ、お世話になります」
軽くお辞儀をする。それを見た彼女は微笑んだ。その表情は次第に戻り、話を切り出す。
「もし、元の体に戻れなかったら…、どうするの?」
考えてもいなかった。ずっと、元に戻るときの事を考えていた。
「戻れなかったら…」
はるかは、一呼吸置く。
「そのとき、考える」

 

それから、三日が経った。
仕事が終わり、はるかは携帯電話の画面を見る。その画面で、時刻を確認する。午後九時を少し回ったところだ。
時刻表示の下には、着信あり、と書いてあった。
着信履歴を見てみる。番号は03から始まっていた。
「…迷惑ワンコか」
そう呟き、電話を畳もうとしたとき、着信音が鳴り響いた。番号は、先ほどのと同じだ。
はるかは、数秒待ってから応答する。
「もしもし、高橋ですけど…」
『夜分申し訳ないです。 私、藤吉製薬の者ですが、ただ今からお伺いしてもよろしいでしょうか?』
あの薬の件…。 いや、この体の件だろう。
「構いませんよ」
『わかりました。 それでは三十分ほどで行きますので』
「はい、お待ちしております」

 

はるかの家。見るのは三回目の顔が並んだ。
「えーっと、率直に申し上げますと…」
医師はそう切り出した。
「あなたの体は女性そのものです。 まったく矛盾点は見当たりません。 ……脳以外…、ですがね」
それを聞いたはるかは、眉尻を下げて言う。
「そうですか…。 で、元の体に戻ることは…」
「残念ですが、現代の医学では不可能です…」
もしかしたら、心の根底では、この回答がくるのでは、と思っていたのかもしれない。
「それで、例の新薬の影響も調べましたが、それらしい効果はありませんでした」
隣の、製薬会社の男は、封筒を取り出して言う。
「ただ、引き金になったことは確かなので、できる限りのことはさせていただきます」
それを受け取り、中身を見てみる。紙が三枚入っていた。
それらは、調査書二枚と、正式な診断書だった。
「これで、住民票などを書き換えることができるかと思われます」
「性別を、ですか…?」
「ええ…」
そうなると、今までの自分がいなくなってしまう。それが、怖かった。
「それは…、どうしても必要になったときにします」
「そうですか…。 では、また何か問題がありましたら、何でもおっしゃってください」
「はい。 かえってすいません…」
二人は、立ち上がった。
「それでは、この辺で失礼させていただきます」
はるかも立ち上がり、玄関先まで彼らを見送った。
部屋に戻り、先ほど渡された書類を眺める。小さい字が並んでいる。
「よく、わかんないや…」
そう呟き、書類を封筒に戻し、脇に置いた。

 

しばらくして、玄関の戸が叩かれる音がした。
「高橋ー。 居るか?」
それは、和馬だった。
「うん。 ちょっと待って」
再び、玄関まで向かい、鍵を開けた。
「お疲れー」
そう言い、彼を招き入れた。部屋に入った二人は対向して座った。
少しして、はるかは先ほどの話を彼に話した。
「…そうか」
彼はそう、一言だけ言った。その後、しばらく沈黙が続く。
と、突然、はるかは表情を明るくし、口を開いた。
「まぁ、なっちゃったものは、しょうがないよ。 何とかなるって、きっと」
「プラス思考だな」
和馬は苦笑し、そう言った。そして、彼は表情を戻した。
「で? 住民票は書き換えないわけ?」
「うん、なんとなく、だけど…」
「そっか」
その時、はるかの携帯電話が鳴り出した。着信音は標準の音楽だった。
「未登録…。 誰だろ?」
そう言い、画面を見る。
「あ、父さんだ」
「出るのまずくねぇ? その声で…」
「え? あっ!」
時は既に遅かった。はるかは、緑色のボタンを押していた。
『あー、もしもし…』
「たっ、ただ今、電話に出ることができません」
とっさに思いついた台詞。それを口にしていた。
「ピーという音の後に、お名前と、ご用件を、お話ください」
いい終わり、「5」のボタンを押す。相手には発信音に聞こえるだろう。
『えっと、父さんだ。』
ひとまずごまかせたことに、はるかは安心した。
『ちょっと暇ができてな、明日、ちょっと顔見に行くわ』
が、それを聞いて顔の血の気が引いていく。
『昼の一時ぐらいに東京駅に着くから、迎え頼むわ。 それじゃあ』
電話は切れた。はるかは固まっている。
「お、おい…。 どうした?」
「どうしようどうしようどうしよう…」
ぎぎぎ、という擬音が鳴りそうな動きで、顔をあちらに向けてそう言った。
「何があったんだぁ!?」
「親が、明日、ここに、来る…」
「………ヤバくね?」
少し、考える。もう戻れないことを思い出す。
「事情、説明するしかないね…」
「だな…」

 

午前零時。和馬は、帰るのが面倒なので泊まっていくことにした。雑談の後、二人は布団に潜った。
はるかは、既に夢の世界にいる。その隣の和馬は、暑さの所為でなかなか寝付けないでいた。
何度目かの寝返りの後、背中に感触があった。彼女がくっついてきたのだ。
「……カズ、ちゃん…」
「寝言で俺の名前かよ…」
苦笑し、目を閉じる。やはり眠気は訪れてこなかった。
「ね、寝れねぇ…」
早く寝付いてしまいたいと言う気持ちとは裏腹に、どんどんと目が冴えていく。
和馬は、もどかしい気持ちで夜を過ごした。

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