翌日、午後十時。はるかの部屋。
その中心に居座る円卓には、ビールが入ったグラスが三つ置いてあった。
円卓を囲うのは、はるか、優、大橋といった珍しい面々だ。
優は、くいっとグラスをあおり、口を開いた。
「やっぱり、『僕』じゃあダメよねぇ」
彼女の視線は、はるかに向けられていた。
「え? どうして?」
「子供っぽく見えちゃうじゃない」
「うーん、確かに…」
「それに、大谷くんに嫌われちゃうかもよ?」
「なんでいきなりその名前が出てくるのさ…?」
そう言い、はるかはグラスを傾けた。
「え? だって、あんた…」
「?」
はるかは、飲む動作をやめずに、目線だけを優に向けた。
「好きなんでしょ? 彼のこと」
「ぬぐっ!? …けほっ、けほっ…」
食道を通ろうとしていたビールが気管に入りかけてしまったようだ。
「……そんなわけないじゃん…」
「あらぁ? 違うのぉ?」
優は、いたずらな笑みでそういった」
「あぁっ! 禁断の恋っ!? 戸籍上、男同士の二人は、果たして結ばれることができるのか? それは、神のみぞ知るぅぅ!」
大橋は、真っ赤になった頬を両手で覆い、叫んだ。
「…え?」
「んー、あぁ…。 絵美ね、一般に『やおい』って呼ばれている類のものが好きなのよ…。 無視しちゃって構わないよ…」
呆れ顔で優は言い、人差し指を立てて続けた。
「とにかく。 一人称を改めなよ」
「えぇ…? 今さら嫌だよ…」
「ダメよっ! だったら、あんたの気持ちを彼に代弁しちゃうよ?」
「なんでそうなるのさ? それに…」
…ある事ない事並べられそうだ。
はるかはそう思った。
「わ・た・し! わ・た・し!」
その横で、大橋はテンポよく手を叩いてそう言った。

 

午後十一時。
大橋は既に力尽きてはるかの横に転がっている。
優は最後の一口を飲んだ。
「ところでさ…」
「うん?」
「もし、完全に元の姿に戻れるとして、まだ戻りたいと思ってる?」
はるかは、しばらく沈黙し、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「…もしかしたら、こうなることを望んでいたのかもしれない」
少し前の疑問。それをはるかは優に打ち明けた。
「うーん、そっか。 ならよかったんじゃない?」
「いや、よくない」
はるかは即答し、更に言う。
「だって、優ちゃんがいきなり男になったとしたら? 困るでしょ、普通は…」
優は、あごに手を当てて俯いた。
「今の状況だったら…」
「…え?」
優は顔を上げ、手を横に振った。
「ううん。 なんでもないよ。 それより、ただの三週間でよくそこまで『女の子』になれたね」
はるかは、少し呼吸をおいた。
「いや…。 まだ………」
まだ、人と話すときは頭で考えてから発言している。
言われるほど『女の子』になっているわけではない。
はるかは、その思考を隠すかのように続けた。
「ちょっと恥ずかしいから、言わないで。 それ…」
優はふっと笑い、言う。
「やっぱり、そうなんだ。 …そろそろ寝ようか」
「うん」
はるかは立ち上がり、照明のスイッチをオフにした。

 

「僕、大きくなったらきれいなお嫁さんになるっ」
謙二は、飲んでいたビールを豪快に吹き出した。
「……は、晴輝は男の子だろう…?」
「うん、でも僕、好きな人ができたんだ」
雑巾を手にした真美が居間に来た。
「その人って…?」
「うん。 かっこいい男の子だったなぁ…」
謙二は額に手を当てた。
「…まぁ、なれるといいな」
「うんっ」

 

……………。
そうだ。あれは小学四年の時だ。
何を思ったのか、そう言い出していた。
今となっては遠い記憶の彼方だが…。
夢の内容を整理したはるかは、ゆっくりと身を起こし、時計に目をやる。
午前七時半。起きるのにちょうどいい時刻だった。
立ち上がり、玄関に向かう。ポストには新聞が刺さっていた。
それを引き抜き、洗面台に歯ブラシを取りにいく。
そして、部屋に戻って座り、新聞のページをめくっていく。
数分後、読み終わった新聞をたたみ、再び洗面台に行き、口をゆすぐ。
日課に、ひとつ追加されていた。朝食の準備だ。
それが出来上がる少し前に、はるかは二人を起こした。
「んあぁ…。 母さん、今日の朝ごはんは何…?」
大橋は、目を擦りながらそう言った。はるかは思わず失笑した。

 

午後九時。
はるかの携帯電話の着信音が鳴る。その音楽から、相手は和馬だとすぐにわかった。
「もしもし~」
『あのさ、突然だけど、明日ヒマか?』
本当、突然だった。
「…うん。 なんで?」
『いや、大橋からディズニーランドのチケットもらったんだよ。 明日行ってこいって』
「なんで明日?」
『え!? あ、あぁ。 有効期限が明後日なんだよ』
微妙にキョドったのは気にしないことにする。
「じゃあ、せっかくだし、行こうか」
『ん。 なら、明日九時に迎えに行くわ』
「はいはいー」
ここで、電話は切れた。
今の電話を受けて、はるかは携帯電話を閉じながら呟く。
「…大橋…。 お前って奴ぁ…」

 

翌日。午前九時。
外からクラクションの音が聞こえた。
はるかは、荷物を持ち、施錠して外に出た。
「よぅ」
和馬は、エンジンのかかったバイクに跨ったまま、左手を上げた。
「…横着しないっ」
「いいじゃねーか。 ほら、乗れ」
「はいはい…」

 

一時間後。二人が乗ったバイクは湾岸道路の交差点で信号待ちをしていた。
はるかは上を見上げ、言う。
「私もバイクだったら、上走れたのにね…」
「ん? あぁ。 たまにはゆっくり走るのもいいだろ」
そういった和馬は、少し考え、続けた。
「ていうか、自分の呼び方変えたな」
「あ、うん。 優ちゃんに言われて…」
信号が変わり、和馬はクラッチを握る手の力を緩めつつ言う。
「なんて言われたんだよ」
「んと…、子供っぽく見えるって」
「確かにそうかもな。 ……って、運転、大丈夫なのかぁ?」
「うん。 一応、取り回しの練習ぐらいはしてたよ」
「ふむ…」
和馬は少し考え、左ウインカーを出し、路側帯にバイクを停めた。
「免許証、持ってきてるよな?」
「え? う、うん」
「じゃあ、ほれ」
彼はそう言い、前部座席から降りた。
「わぁ…、ほんと久しぶりだよ…」
はるかは、ハンドルを握り、体を前に寄せた。そして、和馬は彼女が今まで座っていたところに座る。
「じゃ、じゃあ…、行くよ?」
「あぁ」
ゆっくりとバイクを垂直にし、サイドスタンドをはらう。そして、発進。
「お。 安定してるじゃん」
「うん、まあね」
そのまましばらく走り続ける。信号機の直前で、和馬は突然言った。
「あ。 信号、赤」
「えっ!?」
はるかは急ブレーキをかけた。後輪のスリップはなく、やはり安定していた。
その間、はるかは信号機に目をやる。
青だった。
「ん、合格」
「ちょっ!? あぶっ…、危ないでしょ!」
「いいじゃねーか。 後ろに車いなかったんだし」
「………」

 

午前十一時。
二人はディズニーランドに到着した。
「まず、何に乗る?」
入園ゲートをくぐるなり、はるかはそう聞いた。
「うーん、ジェットコースターかな」
和馬がそう言うと、はるかは園内案内を広げた。
「じゃあ、あっちだね」
そう言い、横を指差した。
その方角に歩いていき、やがて搭乗口付近に到着する。
そこには、看板が立っていた。
『1時間30分待ち』
その看板にはそう書いてあった。
「………」
「…他、行くか?」
「そうだね…」
ひとまずその場を離れ、他の乗り物の搭乗口を回った。
『1時間45分待ち』
『2時間30分待ち』
『1時間待ち』
『4時間待ち』
次々と回るが、どこもこのような状況だった。
「誰がこんなに待つんだよっ!」
「まぁまぁ…。 最初のところ行こうよ」
「あぁ…、そうだな」
ジェットコースターの待ち時間は2時間に増えていた。

 

午後一時半。
「ひとつ乗っただけでこの時間か…」
縁石に座る和馬は、うんざりとした様子でそう言った。
「こんなもんじゃない?」
「昔はこんなに混んでなかった気がするが…」
そう言い、和馬は立ち上がった。
「まぁいいや。 なんか買ってくるわ。 何がいい?」
「うーん、任せるよ」
「そうか」
言いつつ、和馬は背を向け、歩き出した。
一人、縁石に座るはるか。
記憶の奥底に、何か引っかかるものがある。
その糸を手繰り寄せてみる。

 

ディズニーランド園内で、親を探して彷徨っている子どもがいた。
晴輝だった。
「おとーさーん。 おかーさーん。 …どこー?」
やがて、疲れてベンチに座る。
不安に苛まれ、涙がこみ上げてきた。
「うわぁーん。 おとーさーん!」
そこに、影がひとつ。
「おい、どうした?」
「ぐすっ…。 お父さんがいなくなっちゃった…」
晴輝が顔を上げると、晴輝より少し年上の子どもがいた。
「それじゃ、オレが一緒に捜してやるよ。 よくここに来てるから、詳しいんだぜ」
「ありがとうっ」
晴輝は頬を伝う涙を拭いながら立ち上がった。

 

二人は、手をつないで園内を歩いていた。
少年は、晴輝のほうを向き、言う。
「お前、何年だ?」
「ボク? 四年生だよ」
「そうか。 もう高学年なんだから、泣くなよ」
「うん…、でも…」
「男は言い訳しないっ」
晴輝は少し困った顔をした。が、やがて、決心したように目を輝かせた。
「…はいっ」
そこで、晴輝の目に二人の人物が目に入った。
「あっ! お父さんだ!」
「お、見つかったか。 じゃあ、俺は行くな」
少年は、握っていた晴輝の手を離した。
晴輝は彼のほうを向いた。
「あ、ありが…」
礼を言おうとするが、少年は既にやや離れた場所で右手を上げて、背を向けて歩いていた。
晴輝は、しばらく彼の後姿を見つめていた。

 

「……………」
そうだ。あの時、あんなことを思ってしまったんだ。
きれいなお嫁さんになる、と。
今は不可能な願いでもないけど…。
そう考え、はるかは苦笑した。
そこに、和馬が戻ってきた。
「どうした? 半笑いして…」
言われて、はるかは、表情を元に戻し、和馬のほうを向いた。
「ううん。 なんでもないよ」
「そうか。 ほら」
和馬はそう言い、左手に持っていたソフトクリームをはるかに手渡した。
はるかは彼に軽く礼を言い、ソフトクリームに口をつけた。
彼も腰を下ろして食べ始める。
食べながら雑談をしていると、はるかの目にひとつの光景が飛び込んできた。
彷徨う女の子。
やがて立ち止まり、泣きそうになる。
迷子だった。
そこに現れた彼女より年上に見える男の子。
彼は女の子に近づく。
二人は二、三言話し、あちらへと歩いてゆく。
何気ない光景だが、それを見つめてしまっていた。
それは、和馬も同様だった。
二人は顔を見合わせ、吹き出した。

 

午後七時半。
花火が夜空に咲き乱れている。
「こんなに近くで花火見たのなんて、久しぶり…」
はるかは、上空を見上げ、そう言った。
「確かに、機会がないからな」
「ところで…」
上を向いていたはるかは、首を戻しつつ言う。
「さっきから持ってたその紙袋、なに?」
「……忘れてた…」
和馬は、照れ隠しにこめかみを人差し指で掻いた。
「今日、何月何日だ?」
「え? うーんと…」
はるかは、かばんの中から携帯電話を取り出し、開いた。
「7月14日、だよ」
和馬はうなだれた。
「あっさりと言うか…。 ほれ。 誕生日プレゼント」
そう言い、先ほどの紙袋をはるかに差し出した。
「…あ。 忘れてたよ…。 ありがとう」
昨年は缶コーヒー一本だったので、さほど期待せずに紙袋から中身を取り出した。
中身は、バッグだった。
和馬はそっぽを向き、言う。
「いや、いつもその大きなかばん持ち歩いてるから。 手ごろなサイズのが欲しいんじゃないかな、って思ってな」
はるかは、きょとんとした。
そして、2、3テンポ遅れて口を開いた。
「あ、ありがと。 ちょうど見に行こうとしてたんだよ」
「そうか」
和馬は、まだ照れくさそうにそっぽを向いている。

 

午後九時。はるかの家の前。
二人はそこに到着した。
はるかは和馬のバイクから降り、後部のメットホルダーに被っていたヘルメットを引っ掛け、言う。
「今日は楽しかったよ。 ありがとう」
「あー、いや。 礼なら大橋に言ってくれ」
和馬は少し視線を逸らしつつ言った。
「うん。 彼女にも言っておくよ」
「あぁ。 じゃあな」
そう言い、彼は発進しようとした。そこで突然、はるかは叫ぶ。
「あっ!」
発進の動作から、急停止。バイクのエンジンは小さな、独特な音を立てて停止した。
「……なんだ?」
はるかは、一呼吸置いた。
「あのさ…。 十四年前のゴールデンウィークに、ディズニーランド行った?」
和馬は、眉をひそめた。
「あん? なんで?」
「いや、ちょっと気になって…。 ほら、実家が千葉だったよね?」
「あぁ」
「近くだから、よく行ってたんじゃないかな、って思って…」
彼は少し考え、言う。
「俺が小学六年の頃か…。 たしか、行ったな」
「そこで、迷子の男の子の手を引いて一緒に親を捜さなかった?」
「あー。 そんなことしたなぁ。 男のくせにめそめそ泣いて………って、なんで知ってるん…」
和馬は、はっとした。
「…まさか、あのときのって……?」
はるかは、自分を指さした。
「多分…、私だよ」
お互い、沈黙する。
街路灯の周りに羽虫が群がっている。
二人の横を猫が通り過ぎる。
やがて、和馬は口を開いた。
「…偶然ってのも、あるんだな」
「…うん」
その、微妙な空気のままで二人は別れた。

 

午後十時。
はるかは、布団に潜り込んで、何度目かの寝返りを打った。
瞼は、なかなか下りてこない。
部屋の中は、エアコンの動作音に支配されていた。
『きれいなお嫁さんになる』
幼き頃の大谷を見ての言動だった。
これは、偶然なんかではなく、運命だったのかもしれない。
どう考えても出来過ぎている。
幼少期に、男の子に惹かれた事。
大谷と、バイト仲間になり、やがて、友達になった事。
俺が…、じゃなくて、私が、女になった事。
すべてが一本の糸で繋がれてしまった。
これを、運命といわずに、なんと言うのだろう…?
そう考え事をしているうちに、はるかは眠りへと落ちていった。

 

翌日。午後五時。
はるかは、焼肉屋のエプロンを着て、ホールに出ようとした。
そこで、和馬と出くわした。
「あ…」
二人の間に、また微妙な空気が流れる。
はるかは、恥ずかしそうに頬を赤らめ俯き、上目遣いで和馬を見て、言う。
「こ、こんにちは…」
和馬は、こめかみを人差し指で書き、そっぽを向いた。
「お、おう」
その光景を遠目で見ていた仲間たちは、口々に言う。
「あの二人、なんかあったのか…」
「…さぁ?」
「禁断の恋はどこまで加速すr」
「あんたは黙ってなさいっ」
優は、大橋の後頭部を小突いた。

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