はるかは、虚空を見つめている。
ほんの僅かな速度で明滅を繰り返すむき出しの蛍光灯から、ふと目を逸らし、窓の外へと目を移した。
四角く切り取られた風景の大半を占める色は、空の青だった。
その上辺に大量の光束を放つ太陽がそびえている。
眩しすぎるそれを覆うように白い雲が流れていった。
白い…。

 

「あぁぁぁ…。 出ちゃったよー。 ほら、飲んでね…」
はるかは首を横に振って抵抗し、精液を口に溜めていた。
「飲めって…」

 

白い…。

 

「今度は膣中に、出…おぉぅ……」
情けない声とともに、今度は動きを鈍くした。
緩急の激しい男の動きを不審に思い、正面を向くと、男は恍惚とした表情を浮かべていた。
モノは、刺さったままだった。
「ふぉおぅ…。 膣内に、出しちゃったよ。 フフフ…」

 

白い…。

 

「それでは、そこのベッドに横になってください」
『鑑識』と書かれた腕章を付けた男が、そう言いながら背中を軽く押して、白いバスタオルを纏ったはるかを誘導した。
言われた通り、ベッドに足をかけると、鑑識は手を差し出した。
「バスタオル、取ってください」
「…はぃ?」
はるかは困惑気味に、身を縮めた。
「犯人の体毛とか付着してるかもしれないんで」
仕方がないので、躊躇いがちにバスタオルを取り、差し出した。
鑑識は、それを半ば強引に受け取り、後ろに控えていた別の男に渡した。

 

白い…。

 

横になったはるかに、数人の人間からの視線が刺さった。
間もなく、彼女から見て下方からゴム手袋をはめた女の鑑識が試験管を持って現れた。
「足を広げて。 ちょっとでいいから」
「ぇ? あ、はい…」
言われるがまま、少し膝を起こした。
「じゃ、ごめんね」
そう言うと、鑑識は彼女の恥部に試験管を当てながら人差し指を差し入れ、中を掻き出した。
その通常ではない状況に、はるかの顔は羞恥心から紅潮していく。
自然と、足が閉じていった。
「あ、ちょっと。 もうちょっとそのままでね」
彼女は、無情にはるかの足を押さえつけた。

 

白い…!

 

検体の採取を終えた彼女は、試験管を振り、底のほうへと液体を移動させ、蓋をした。
溜まっているのは、紛れもない、あの男の体液だった。

 

白い…白……白いっ…!
白いシーツが、彼女にかかっていた。
「いやああぁぁぁっ!!」
ばっとそれを跳ね除けた。
だが、白いシーツは下にもあった。
「ああぁぁぁあああ!」
混乱し、転がり落ちるようにベッドから降り、壁際に移動した。
そこには、白い壁があった。
「ぅぁぁああぁん! もういやあぁぁぁああ!!」
はるかは壁から離れ、蹲って叫喚した。
入り口には、一部始終を見ていた和馬が、病室に入れずに立ち尽くしていた。
彼女は、彼が自身を脅かす「男」という種類であるようにしか見えなかった。
「やだ! 出てって! 出てっ…帰ってよぅっ!」
叫びながら、一緒にずり落ちた枕を、ドア付近に投擲した。
それは弱々しい軌跡を描きながら和馬の手前に落下した。
和馬は、いたたまれないようにこめかみを掻いた。
「…悪い」
彼はそう言い、静かに引き戸を閉めた。
向こうからは、すすり泣く声が聞こえ始めた。
一呼吸置き、歩き出そうとした。
そこに、看護師が立っていた。
「あなた、彼女に何を言ったの?」
「は? いや、別に何も…」
看護師はため息とともに肩を落とした。
「ああいう事件の後の女の子って特に繊細になってるんだから。 気をつけてくださいね」
そう言うと、彼女ははるかの病室のドアを開け、そこに入っていった。
「…だから、なにも言ってねえって」
苦笑し、そう呟きながらこめかみを掻いた。
最近掻くことが多くなったそこは、少し赤くなっていた。

 

「不幸中の幸いと言いましょうか。 妊娠については認められませんでしたよ」
医師は、はるかの父、謙二にそう説明した。
「そうですか。 取り敢えず安心しました」
「ところで…」
彼は切り出しづらそうに言った。
「身分を確認するときに拝見させていただいたんですが…。 その…、複雑な経歴をお持ちなんですね」
謙二は、すぐに彼女の女体化のことだと気づいた。
「ええ、そうなんですよ…」
「しかも、発行日を見ると最近起こったことだったのでしょう。 そういうことなら今回の事件は、精神的なショックは大きいと思いますよ」
「でしょうね。 …早く立ち直ってくれることを願いたいですね」
そう言う彼の、今回の事件に関しての焦りは見えるものの、それよりも重大であるであろう性転換のことに落ち着いた態度を見せる様子に、医師は違和感を覚えた。
「……性転換について、あまり驚かれていない様子ですが?」
聞かれた謙二は、ははっと軽く苦笑した。
「いや、まぁ…。 一度驚いた後ですしね」

 

謙二は、はるかの病室を訪れた。
彼女は、「男」と「父」を別の種類と認識し、混乱は起こさなかった。
それでも、言葉数は普段から比べると雲泥の差で少ない。
「それじゃ、悪いけどもう帰るな」
はるかは、黙って頷いた。
謙二にはその動きと、衣擦れの音だけが届いた。
「早く、元気になれよ」
ドアを開けた彼はそう言い、一歩踏み出し、取っ手から手を離すと、それは自動的に閉まった。
出口に向かおうと前を見ると、椅子に腰掛け、こちらを見ている青年がいた。
その青年がおもむろに立ち上がり、歩み寄ってきた。
謙二も歩き出し、彼と向き合う形になった。
「あの…」
青年はそう言い、頭を下げた。
「申し訳ありませんっ! 相談を受けていながら、軽く受け流してしまったばっかりに、こんなことに…!」
「あ、いや。 頭を上げて。 …君は?」
おずおずと頭を上げた青年は、まだ申し訳なさそうにこちらを見ている。
「あの、俺…じゃなくて、僕は大谷と申します。 娘さんの、いや、息子さんの……あれ?」
謙二は、ふっと息を漏らして微笑した。
「だいたい、あいつとの関係はわかったよ。 取り敢えず、座ろうか」
そう言い、和馬が先ほどまで座っていたところへと歩き出した。
和馬もそれに倣って歩き出す。
廊下から開けたところに自販機があった。 謙二はそれに硬貨を投入した。
「缶コーヒーでいいかな」
「あ、はい」
その答えを受け、赤く丸い印が光っているボタンを押した。
続けて、もう一つ同じものを購入し、片方を和馬に手渡した。
それを受け取った和馬は財布を取り出そうとすると、彼はそれを手で制した。
「…すいません。 いただきます」
「どういたしまして。 それじゃ…」
そう言い、外へ向かって指をさした。
近くの柱には、それと同じ方向に矢印が記されてあり、その左には「喫煙所」と書いてあった。
「はい」
和馬がそう言い頷いたのを確認すると、謙二は歩き出した。
やがて、二重の自動ドアをくぐり、木陰のベンチへとたどり着いた。
二人は腰をかけ、一方はポケットから煙草とライターを取り出し、それを咥えて火をつけた。
「大谷くんは、吸うの?」
そう言い箱を差し出した彼に和馬は首と手を同時に横に振った。
「あ、いえ」
「そうかい」
彼はそれをポケットにしまいつつ、紫煙を吐き出した。
「あ、あの…」
「ところで…」
二人は同時に話を切り出した。
謙二は軽く笑い、手のひらを和馬のほうに差し出した。
「どうぞ」
「すいません。 あの、はるかさん。 いえ、晴樹くんの……」
「どちらでも構わないよ。 君の呼びやすいほうで」
そう微笑みかけた彼に、やや申し訳のなさそうな顔を向けた。
「じゃあ……、はるかさんの容態、といいますか…。 大丈夫なんですか?」
彼は上を見上げ、ふっと苦笑を漏らした。
「…見ての通りだよ。 まぁ、怪我とか感染症とか、今後に及んでの心配はなさそうだ、って医者は言ってたよ。 妊娠もなかったってさ」
「そうなんですか…」
和馬は、無意識に肩の力を抜き、胸を撫で下ろしていた。
「ただ…」
風が吹き、木の葉が揺れた。
「…ただ?」
「心に深い傷を負ったみたいでね。 それを埋めるのは容易なことじゃないと思う」
ふむ、と和馬は顎に手を当てた。
「だから、あいつと近しい人間、……君が適任かな」
「えっ?」
その言葉に反射するかのように、顔を上げ謙二を見た。
「君が、あいつの元気を取り戻してやってほしいんだ。 …俺はあいにく、明日から仕事があるんでね。 傍に居てやりたいのは山々なんだけど…」
「…わかりました」
謙二は、煙草を灰皿に捨てた。 それは、じゅっ、と音を立てて消火した。
そこで、ふと立ち上がった。
「それじゃ、帰りの電車の時間、もうすぐだから。 …頼んだよ」
「はい。 お任せください」

 

看護師になだめられたはるかは、ベッドで寝ている。
…カズちゃんに、酷いことしちゃった…。
せっかく来てくれたのに、あんなこと言っちゃったし、枕も投げたし。
…もう、一緒に遊んでなんてくれないよね。
そう思い、シーツで深く顔を隠した。

 

翌日。
「ああは言ったもののなぁ」
今の彼女には、取り付く島もない。
和馬は、そう考え、ため息とともに頭を垂らした。
そこは、はるかの病室の前だった。
顔を上げ、意を決したようにドアをノックした。
「入るぞー?」
そう言いつつ、ドアを開け、室内へと足を踏み入れた。
彼女は、彼を一瞥すると、すぐに向こうを向いた。
「…な…で……の?」
「ぁぇ?」
彼女の言ったことが聞き取れず、和馬は一歩踏み出した。
「帰って」
その言葉に一瞬躊躇するも、更に彼女に近づく。
「帰って」
「そんなつれない事言うなよ」
「帰って」
和馬は、肩をすくめた。
「ほらよ、見舞い。 置いとくぞ」
そう言い、和馬はベッドの横の台にフルーツバスケットを置いた。
「帰って」
「…まだ言うかよ」
苦笑し、和馬は続ける。
「せっかく見舞いに来てやってんだ。 こっち向いて話そうぜ」
「帰って」
彼の苦笑は凍りつきかけた。
「…はぁ」
そのため息とともに凍結を防いだ表情を微笑に変えた。
「わかったよ。 また来るから」
「帰って」
「はいはい。 帰りますよ」
片手を上げながらそう言い、ドアへと向かった。
ちらりと見たその姿が、はるかの十四年前の記憶を呼び起こした。
だが、目をぎゅっと瞑り、それをまた奥底へとしまった。
瞼を開いた次の瞬間には、彼はもう居なくなっていた。
それに一抹の寂しさを覚えた直後、ドアが開いた。
「はるかちゃん。 大丈夫…?」
そこに立っていたのは、優だった。
はるかは、黙って頷いた。
「そう…。 でも、あんまり元気そうじゃないね」
そう言いながら彼女はベッドの横の椅子に腰掛けた。
はるかの様子に胸を締め付けられる思いに駆られながら、フルーツバスケットに手を伸ばし、それに盛られていた一つを彼女の前に差し出した。
「りんご。 食べる?」
約二秒それを見つめた後、布団に顔を埋め、首を横に振った。
「そう。 じゃ、もらうよ?」
彼女に掛かっているシーツが動いた。 肯定を意味する動きだった。
それを受け、りんごを齧ろうとした優の目に、バスケットの横に置かれた100円ショップの袋が留まった。
その中には、紙皿とフルーツナイフが入っていた。
「おろ。 大谷くん、気が利くじゃん」
そう言い、パッケージを開封し、鞘から抜いたそれを洗いに行ってまた戻ってきた。
ごみ箱を足元に置き、皮を剥き始める。
最後まで剥き終え、一条に繋がった皮をごみ箱へと落とした。
芯を取り、六つに切り分けられて皿に載ったそれに、袋に一緒に入っていた爪楊枝を刺して口に運んだ。
しゃりしゃり、という音が部屋を支配した。
「……ぁの…」
注意していなければ聞き逃していただろう、はるかの声が優に届いた。
「ん?」
はるかは、布団から目だけを出し、こちらを見た。
「…やっぱり、食べる」
優は頬を緩ませてにっこりと笑った。
「うん。 甘くておいしいよ」
そう言い、皿を彼女に差し出した。

 

翌日。
和馬とともに、坂口が病室に顔を出した。
「よぅ。 調子はどうだ?」
はるかは、椅子に腰掛けた和馬を見ようとはしなかった。
「帰って」
「はぁ…。 またそれか…」
「帰って」
その言葉を無視するかのように、和馬は坂口を手で促した。
「馬鹿が話があるってさ」
坂口は一歩前に出て、頭を下げた。
「はるかちゃん、ごめんっ! あの日、実は俺、ズル休みしてさ…」
顔を上げつつ、はるかの様子を窺った。
彼女は、微動だにしていない。
「俺が休まなければ、はるかちゃん、こんなことにならずに済んだのに」
そう言い、もう一度頭を下げる。
「本当に、ごめんっ!」
「うん。 もういいよ」
衣擦れの音と同時に、彼女はそう言った。
はるかは、窓のほうを向いたまま、こちらに一瞥もくれなかった。
「だから、帰って」

 

病院を出た和馬は、盛大な溜息と共に肩を落とした。
「な? あれは重症だろ?」
「あぁ…」
それきり、二人は黙って門へと歩き出した。
程なくして門を抜け、歩道へと出た。
「早く、元気になるといいな」
ぽつりと、坂口はそう言った。
「時間が解決してくれる、なんて問題でもなさそうだけどな」
「…だよな。 すまん」
和馬は、ぷっと吹き出した。
「何で俺にまで謝るんだよ。 お前らしくないぞ」
「そう…、だよな」
そう言いながらも肩を落とした坂口を小突き、にかっと笑った。
「そう心配すんな。 あいつはなんとかなる。 ……なんとか…して、みせる」
言いながら、真顔になっていた。
「おい、お前…?」
和馬は、はっと微笑を作った。
「いや、高橋の親父さんに頼まれたんだ。 元気にさせてやってくれ、って」
「そうか…」
二人は、赤信号の前で立ち止まった。
その瞬間、信号が青に変わった。
「あのさ…はるかちゃん、やっぱり怒ってる、…かな?」
俯き加減にそう呟いた坂口を横目に、和馬は歩き出しながら空を見上げた。
「さあな。 今のあいつの気持ちなんて窺い知れねーって」

 

「帰って」
そう言われ続け、数日が経った。
和馬は、はるかの横の椅子に腰掛け、雑誌を読んでいた。
「来て十分も経ってないのに、帰れるかっつーの」
雑誌から目を離さずに、そう言った。
「帰って」
はるかもまた、彼と正反対の方向を向いたままそう言った。
「お前さ、いつまで寝てるつもりだ?」
「…っ! ……帰って」
彼女は布団の中で蹲った。
「さっさと起きてさ、また遊ぼうな」
「…な…で?」
「え?」
和馬は、雑誌から目を離し、はるかのほうを向いた。
「…なんで? あのとき、酷い事したのに」
「あの時? ……あぁ…」
入院初日のことだろう、と和馬は思った。
「なのに、なんで遊ぼう、なんて…」
そう言うはるかは、まだ窓のほうを向いていた。
「あんなの気にしてねーし。 言われなきゃ忘れてたくらいだ」
「……帰って」
和馬の中の、何かが切れた。
「そうか…。 わかった」
彼は、雑誌と、それが入っていたコンビニ袋を持って、がさっ、と音を立てて立ち上がった。
「そんなに帰れ帰れ言うなら、もう来ねえよ。 じゃあな」
言い終え、踵を返しドアの取っ手を乱暴にひっ掴んだ。
「………れは…だぁ…」
「あぁ!?」
ドアを開け放ちつつ、振り返った。
「それは、やだ、よぅ…」
はるかは、半身を起こし、こちらを向いていた。
久々に見たはるかの顔は、涙に濡れていた。
「はぁ…」
彼は溜息をつきつつ、脱臼せんばかりに肩を落とした。
「わかったよ。 じゃ、また来るから」
そう言い、外へ出てドアを閉めた。
中からは初日と同じように、すすり泣く声が聞こえ始めた。

 

あの日以降、はるかは「帰って」とは言わなくなった。
その代わり、和馬は彼女の声を聞くことができなくなっていた。
「なぁ。 なんか足りないものとかないか?」
少しの沈黙の後に、シーツが僅かに動き、音を立てた。
首が横に振られたその動きを見て、携帯電話に目を移した。
「そうか」
そうとだけ答えると、また部屋に沈黙が訪れた。
それから間もなくして、看護師がドアを開け、中へと入ってきた。
「高橋さん。 診察の時間です」
和馬は、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、外で待ってるわ」
そう言い、閉まりかけていたドアを再び開け、病室前の椅子へと向かった。
それに座ったとき、ドアは静かな音を立てて閉まった。
暫くして、さきほどから打っていたメールを送信したころに、優がこちらへと歩いてきた。
携帯電話をポケットにしまうと、彼女は隣に腰掛けた。
「どうしたの? また追い返された?」
和馬はふっと息を漏らすように笑った。
「そんなとこかな。 診察の時間だってよ」
「そっか。 ところでここ、病院だよ。 ケータイいいの?」
「あー。 医療機器とかないし、大丈夫じゃないかと思って」
「ダメだと思うけど…」
彼女は、そう言い苦笑した。
和馬が少し申し訳なさそうにこめかみを掻くと、目の前のドアが開き、看護師が出てきた。
二人は立ち上がり、部屋に戻っていった。
「やっほー。 調子はどう?」
先に入った優はそう言い、ベッド横の椅子に座った。
一呼吸置き、彼女の返事がないまま、優は続ける。
「そうそう。 足りないものってない?」
「それ、さっき俺も聞いたぞ」
入り口付近に立っていた和馬は、首を横に振りながら言った。
優は人差し指を下唇にあて、うーん、と少し唸り、彼女の耳に顔を近づけた。
「下着とか、大丈夫?」
小声でのその言葉は和馬には届かなかったが、彼は敢えて聞きなおそうとはしなかった。
少しの間の後、シーツの下から否定を意味する動きがあった。
「そっか。 取りに行ってあげようか?」
今度は、首が縦に振られた。
「じゃ、家の鍵借りるよ」
優は立ち上がり、彼女のバッグの中からそれを取り出した。

 

翌日。
昼番だった和馬が病院に向かおうとすると、丁字路の左側から優が歩いてくるのに気づいた。
バイクを道路の端に停め、彼女に声をかけた。
「よぅ。 取りに行くのか?」
「うん」
和馬は、ホルダーからヘルメットを取り、差し出した。
「一緒に行くか?」
「うーん。 じゃ、お願い」
そう言い、彼女はそれを受け取って頭に被り、後部座席に座った。
程なくして、はるかの家の前に到着した。
塀の前に停めてエンジンを切り、バイクを降りると、和馬はその二階部分を見上げた。
「……なんか、久しぶりな感じがするなぁ…」
そう言い、優に追従する形で階段を昇って行った。
上りきる少し前に、201号室のドアの鍵穴に針金を差し込んでいる男が見えた。
「はるか。 もう少しで行くからね…。 ヒヒヒ…」
その男はそう呟き、異様な様相を呈していた。
優は口に手を当て、一歩身を引いた。
「おい、てめえ…。 何してやがる…?」
そう言い、優を右腕で自身の後ろに隠れるよう促した和馬は、目を吊り上げた。
「ああ、ごめんね。 通行の邪魔? すぐ終わるから」
「そう言うことじゃねえよ。 その部屋の鍵を開けて何をするつもりだ、って聞いてるんだよ」
眉間に寄せた縦皺の彫を更に深くし、男にそう凄んだ。
男は、すっくと立ち上がり、和馬を見上げる形で対峙した。
「まさかキミって、カズちゃん?」
和馬は一歩前に出た。
「馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ」
「怒らない怒らない。 はるかってば、ボクとキミのことを間違えたんだよ。 似たもの同士って事?」
「その名前も、気安く呼ぶな」
更に一歩踏み出しつつ、後ろの優に「1・1・0」と指で合図した。
彼女ははっと気づき、音を立てないように階段を降りていった。
「はるかのことかい? キミも思いを寄せてるようだけど、残念だったねェ」
男は得意げな顔を作った。
「ボクが先に食べちゃった」
和馬は、奥歯に力をこめ、ぎりぎりと音を立てた。
「だから、ボクとの気持ちいい事を想像してオナニー三昧の日々なんだよね? だから、もっと慰めてあげないといけないんだ」
そう、言いたいことだけを言い、ピッキングを再開しようとドアに体を向けた。
「たか……、はるかは今、入院中だ」
男はぴくっとその動作をやめ、和馬に残念そうな目を向けた。
「そうかい…。 じゃあ、その病院がどこか教えてくれないかな?」
「ばーか。 教えられるわけがないだろ」
そう言い、和馬は顎を上げ、下目使いで男を見下ろした。
「なるほど。 妬んでるんだね?」
「はぁ?」
できるだけの憎たらしい口調を作り、そう言った。
だが、男はそれにも負けぬ得意面を作った。
「僕が先においしいとこを頂いちゃったから」
「テメェ…」
和馬は表情を歪ませ、右手の指の骨をボキボキと言わせた。
「はるかの膣内、あったかかったナリぃ~」
「ブチ殺すっ!」
大きく一歩を踏み出し男の顔面に叩き込もうと握りこぶしを軌道に乗せた。
その瞬間、男はポケットからカッターを取り出し、和馬に向けた。
和馬は、腕の動きを止めた。
「男の血を見るのは趣味じゃないけど…、正当防衛だしね」
「…バカが」
和馬は手を開き、更に一歩踏み出して男の手を掴み、捻った。
「ぁいててててっ!」
男は咄嗟に手を開き、カッターが離れた。
地面に落ちたそれを和馬は蹴り、遠くへと滑らせた。
一連の動作の最後、前のめりになりつつ男の足をかけ、その背中に体重をかけた。
男は、勢いよくうつ伏せに倒れた。
「ぅぐっ…!」
和馬は、それに馬乗りになり腕を捻りあげていた。
「大谷くん、護身術かなんかやってたの?」
通報を終え、開いたままの携帯電話を持った優は、驚嘆した表情で一部始終を見ていた。
「…まぁ、ちょっとな」
和馬は、男から目を離さずにそう言った。
「くくく…。 いつか、覚えてろよ…?」
ようやくといった声色で、男は言葉を紡いだ。
「生きてる間に出所できると思ってるのか?」
「するさ…。 はるかの為にも」
和馬は、捻っている腕を更に上にあげた。
「誰が、はるかの為だって? あぁ!?」
そう叫び、側頭部に握りこぶしを叩き込んだ。
「お前の所為で、あいつ、あんなになったんだぞ!」
「オナニー三昧?」
もう一発、今度は後頭部を殴った。
「馬鹿かお前はっ!」
そう言い、続けざまに殴る。
「お前が、そんなことをしなければ…!」
ごんっ、ごんっと重低音があたりに響く。
「はるかは、ボクの嫁になる…」
「まだ妄言を続ける気か!? …殺す!」
奥歯に力をこめ、男の顎を砕かんばかりに殴った。
「だれが…っ!」
頬。
「お前の…!」
側頭部。
「嫁になるって!?」
頭頂部と続けて、叫びながら殴った。
男は、痙攣を始めていた。
「やめて! 本当に死んじゃうよ!?」
後ろから優の声がかかった。
「殺すつもりだっ!」
渾身の力を込め、首の後ろ、延髄へと拳が振り下ろされる。
「バカ!!」
腕の動きは、ぴたりと止まった。
「そいつを殺しちゃって、あんたが刑務所なんかに入ったら、だれがあの子を助けるのさ!?」
彼女のその言葉に和馬は、はっとした。
今ここで男を殺せば、正当防衛の枠を超えてしまう。
はるかの父親との約束を果たすことができなくなってしまう。
「ちっ!」
和馬は立ち上がり、男の腹部を軽く蹴った。
男は、小刻みに震えながら小さく咳をした。

 

「…まぁ、相手も武器を持っていたと言うことで? 今回は正当防衛になるとは思いますがね」
「はい…」
警察官は、呆れた顔をした。
「あれはやりすぎだよ…」
「はい…。 すいません、頭に血が上っちゃって…」
「本当はアウトだよ? けど、君の気持ちもわからなくはないからね…。 ギリギリ。 本当にギリギリセーフ、ってことにするよ」
「…ありがとうございます」
彼は、立ち上がった。
「じゃ、もう帰っていいよ。 ゆっくり休んで、頭を冷やしてくださいね」
和馬も、彼に倣い立ち上がり、取調室から出た。
エントランスまで進むと、優もちょうど警察署を出る姿が見えた。
「相田。 お前も今終わったのか?」
「あ、うん。 …無駄に長かったよ」
苦笑し、彼女はそう答えた。
和馬はポケットからバイクのキーを取り出し、駐輪場に向かった。
「俺の場合、事が事だけに短すぎた、ってところか?」
肩を竦め、小首を傾げてそう言う和馬の態度に、怪訝な眼差しを投げかけた。
「ちょっと大谷くん…。 ほんとに反省してるの?」
「ああ。 してるしてる」
バイクに跨り、ハンドルロックを解除して後退し、エンジンをかけると優に座るよう促した。
「もぅ…。 …ま、あそこまでしなければ、あたしにとっても爽快だったけどね」
「だろ?」
そう言い、彼女の姿勢が安定したところで、発進させた。
はるかの家に向かうために逆走する形で大通りをしばらく行き、やがて小道へと逸れた。
速度が緩やかになった頃合で、優は風に靡く髪の隙間から、静かに開く口を覗かせた。
「…あのね。 実はあたし、高橋くんのこと、好きだったんだ」
「……は?」
和馬は、やや素っ頓狂な声を上げた。
彼女は少し慌て、和馬に顔を近づけた。
「あ、いや…! まだ女の子になる前のことだよ?」
「へぇ」
適当にあしらうようにそう言い、ブレーキをかけ、減速していく。
「ちょっと…。 ほんとだってば」
少し恥ずかしそうにぷくっと頬を膨らませて抗議する彼女を一瞥し、バイクを止めた場所の横にある建物に指をさした。
「ほら、着いたぞ? 俺はここで待ってるから」
「……あ」
優はバイクを降り、和馬に向き直った。
「とにかく、そう言うわけだからさ。 高橋くんのこと、よろしくっ。 …それじゃあ、ちょっと行ってくるね」
彼女はそういい終えると、やや駆け足気味にアパートの階段を駆け上がっていった。
「…二人目か。 よろしくって言われてもなぁ……」
和馬はそう小さく呟き、タンクに肘を置き、頬杖をついた。

 

数十分後。
十六時を少し回ったころに、和馬と優ははるかの病室を訪れた。
「はい、これ。 頼まれたものだよ」
彼女はそう言い、ベッドの横に紙袋を置いた。
はるかは、シーツから目から上だけを出し、優を見た。
「…ありがと」
「どういたしまして」
そう言い、くすっと小さく笑うと、彼女の耳に顔を近づけ、小声で言う。
「大丈夫。 大谷くんは部屋には入ってないよ」
彼女は、優と和馬を交互に見て、小さく頷いた。
「でね、遅れちゃったのはちょっと理由があってさ…」
言い出しづらそうな優に、はるかは怪訝な眼差しを向けた。
「高橋くんの家に行ったら、……変な男と鉢合わせてね…」
はるかの肩が、僅かにぴくっと動いた。
「その男の口ぶりからすると………お察しのとおり、高橋くんを…、えと、襲っ…た、男だったの」
いい終えた頃には、彼女は怯えたような目線をこちらに向けていた。
優は、それをなだめるような柔和な表情を作った。
「あ。 安心して。 強~いボディガードさんがいてくれたおかげで、そいつ、警察送りになったから」
そう言い、ちらっと和馬を一瞥し、続ける。
「…やりかたがちょっと乱暴だったおかげで、お説教を喰らっちゃったけどね」
「言うなよ…」
和馬は、少し分が悪そうにそう呟き、部屋の奥の窓のほうへと歩き出した。
「ま、死ぬまでムショに入っててもらいたいところだな」
窓枠に体重を預けながら和馬は天井を見上げた。
「そうだねぇ。 あんなのがうろついてたら、おちおち外なんて歩けないしね」
「けど…。 アレと傷害未遂じゃあ十数年がいいとこだよな…」
はるかは、寝返りを打ったようにこちらを体を向けた。
「……そういえば」
消え入りそうなその声は、辛うじて優の耳に届いた。
「どしたの?」
その問いに、はるかは躊躇いがちに顔をシーツから出した。
「……あの男…、人、何人か殺してるって…」

 

翌日。
和馬は、仕事に行く前にあの男がいる警察署へ寄り道をした。
そこで和馬は、昨日はるかが話したことを担当の警察官に相談した。
「う~ん…。 じゃ、それとなく聞くよう言ってみますね」
警察官は立ち上がり、歩き出した。
「あの。 俺も行っていいですか?」
「はい。 構いませんよ」
その答えを聞き、和馬は警察官について行った。
やがて、取調室の前へと着くと、彼は和馬を手で制してからそこへと入っていき、二、三言話をしてから部屋から出てきた。
「そこで取調べの様子を見ることができますよ」
彼はそう言い、先ほどとは別のドアを指し示した。
「あ。 すいません。 じゃあ、ちょっと拝見させていただきます」
和馬はかしこまった態度でそう言い、指されたドアから室内へと入っていった。
そこは薄暗く、男と警官のマイクを通した話し声が聞こえる、少し不気味な空間だった。
「あ~、その話? 最初の娘はね。 あまりにも煩かったから喉を斬ってやったのさ」
男は右手を動かし、そのときの状況をジェスチャーした。
「するとね、ひゅーひゅーと音がするんだよ。 そこに開いた穴も、もちろん舌で犯したよ」
ぐへへ、と、気味の悪い笑い声を上げた。
「血の味がする首筋を犯しながら、今度は下の口を犯したってわけさ。 締りが良かったよ、あの娘は…」
そう言うと、眉尻を少し下げた。
「でも、残念だったな。 膣内に出して、ボクの子を妊娠してくれると思ったのに、死んじゃうんだもん」
書記係は、克明に証言を記していく。
「…で、二人目は?」
呆れたように肩を落としながら、警察官は男にそう言った。
「聞きたい? 愛の悲劇を」
男は、自慢げな顔を作った。
「あの娘は、騒ぎはしなかったけど、ボクを無性に叩いたんだね。 ウザかったから腕に切込みを入れたってわけ」
またしても、ジェスチャーをするように手を動かした。
「そうすると大人しくなったんだけど、前のあの娘で血の味を覚えちゃってね。 ボク」
そう言い、自身の腹に手を持っていく。
「腹を掻っ捌いて、赤いエキスを堪能しながら彼女を犯してたのさ」
男は、恍惚とした表情を浮かべた。
「イクときは、膣内に出してもどうせ死んじゃうから…、フフフ。 お腹の中、に、直接射精したよ。 そんな経験、滅多にできるもんじゃないしね」
言い終えると、表情は更に歪んだ笑みへとなった。
「……状況は、さきの連続殺人と完全に一致しています。 腹腔内の精液の件が、特に…」
立っていた警察官は、驚嘆の表情でそう言った。
「ところで、ボクが人を殺したって漏らしたの……はるか、だな…?」
「その質問には答えかねる」
「クソっ! あの女…! やっぱり、殺しておくべきだったのかああぁぁぁああぁぁぁあああ!!!」
がたんっ、と音を立て、男は立ち上がった。
警察官は慌てて取り押さえ、手錠を後ろ手にかけた。
「ハァ、ハァ…。 まあいい。 はるかは俺の子を産んでくれるんだからな」
手錠をかけた警察官は、ため息をついた。
「そのはるかさんも、妊娠してなかったみたいだよ」
男は、表情を驚嘆に変え、即座に憤懣とした表情になった。
「クソ…クソ…っ! どいつもこいつも…俺の……」
腹の奥からの怒りがにじみ出たようなその声を、マジックミラーの向こうでスピーカーを通して聞いていた警察官は苦笑した。
「…これは、最低でも無期は確定ですね」
「反省の色、全くないですもんね…」
和馬は、怒りに震える唇から、なんとか言葉を紡ぎ、立ち上がった。
「ありがとうございました。 吉報がまたひとつできましたよ」
彼に倣い警察官も立ち上がる。
「いえ。 お礼を言いたいのはこちらのほうです。 ぜひ、彼女にもよろしくお伝えください」
「はい。 わかりました」
言いながら、ドアを開け、外へと出た。
「それでは、これから仕事がありますので」
和馬が出口へと歩き出すと、ちょうど、取り押さえられた男が取調室から出てきた。
男は、和馬の顔を確認すると舐めるように睨んだ。
「…ぃよ~う、カズちゃんじゃねーか」
そう言い、前に体をのめりだし、続ける。
「てめえが伝えたのか。 この犬どもに…」
そう言い、手錠を掴んでいた警察官を跳ね除けた。
「許さんっ! ゥらああぁぁぁっ!」
抑圧が解けた男は、和馬に体当たりを試みた。
だが、数十センチの距離で和馬は身をかわした。
彼がいたところの先には、重厚な壁があった。
「へぶっ!?」
壁に前頭部を激突させた男は、その場に蹲った。
和馬は、その様子を見下ろし、口を数回動かした。
「ぺっ!」
その音とともに彼の口から唾が飛び、男の肩口に命中した。
「く、くそぅ…」
手錠によって両手を拘束されているために頭を押さえることもできない男は、もだえながら歯をぎりぎりと言わせていた。
「君…。 今のは、ちょっと…」
警察官は、和馬をその男から引き離した。
「あぁ。 すいません」
まだ男を睨み付けている和馬は、言葉の字面とは正反対の口調でそう言った。

 

午前一時。
和馬は仕事を終え、遅い夕食を調達するため、コンビニに立ち寄った。
財布の中には心許ない金額しか入っていなかったが、今日が給料日であることを思い出し、ATMの方へと向かった。
残高照会をしてみると、彼の予想よりも大きい金額が表示された。
こっそりと満足げな顔を作りながら、続けてATMを操作していくらかを払い戻し、買い物かごを持って酒類の売り場へと足を向けた。
冷蔵庫の扉を開け、いつもは発泡酒に手を伸ばすところだが、奮発して生ビールを2本手に取った。
そのほか、つまみや弁当など数点をかごに入れ、会計を済ませた。
コンビニ袋を手に提げ、狭い路地へと入って行った和馬は、ふと思考を巡らせた。
あいつ、仕事ずっと休んでるし、生活費とか大丈夫なんだろうか、と。
後々、あの男から慰謝料や休業補償やらをふんだくるとしても、当面は困窮するだろう。
(…それも含めての「よろしく」、か?)
肩に圧し掛かったその言葉を、少しでも気持ち的に楽にするように和馬は苦笑しながら、いつの間にか着いていた家の鍵を開けた。
玄関で靴を散らすように脱ぎ、買ってきたビールの片方を冷蔵庫に入れ、弁当を電子レンジに入れて温め開始のスイッチを押した。
それらの残りを持って部屋へと進み、照明を灯し、テレビの電源を入れながら床に座った。
テレビには内容の伴っていなさそうなニュース番組が表示された。
リモコンでチャンネルを変えつつ、缶ビールのプルタブを開け、口をつけた。
チャンネルを二周ほど回したところで表示されたお笑い番組で落ち着き、一口、また一口と飲む。
やがて、電子レンジから温めが終了した音が発せられた。
和馬は台所へ向かい、熱くなった弁当を持ってくる。
再び座ってそのふたを開け、袋から割り箸を取り出して二つに割った。
おかずのから揚げを口に放り込み、流し込むようにビールをまた飲んだ。
テレビのスピーカーからは、お笑い芸人の話し声と観客の笑い声が聞こえる。
和馬は、黙ってそれを見ながら米を口に運ぶ。
数回の咀嚼の後、それを飲み込んで酒をあおった。
「……今日の酒、なんか、うまくねえなぁ…」
そう独り言を呟いて、また缶に口をつけた。
それきり、和馬は言葉を発することはないまま、一人の晩酌を続けた。

 

翌日。
和馬ははるかのもとを訪れた。
「うぃ。 調子はどうだ?」
彼女は、和馬の声を聞くや否や、こちらに向いていた体を寝返りで窓のほうへと向けた。
「…相変わらず、か」
彼はベッドの横の椅子に座りながら苦笑した。
腰を落ち着け、一息ついてから再び口を開く。
「そういえば、一昨日のあのことだけどな」
その言葉に、彼女の体が僅かに反応した。
「あの男、あっさり白状してたよ。 事細かにな」
そう言い、はっと嘲笑気味に息を吐き、続ける。
「最低でも無期だってよ。 とりあえず、安心できるな」
彼女は、黙って頷いた。
和馬はその衣擦れの音を認識すると、大きく息を吐き出した。
「でよ。 そういうわけだから、お前も早く元気になってくれよ。 一人で飲んでもつまらねえんだ。 また今までどおりさ、飲んで騒ごうぜ?」
彼女から、無言の反応が返ってきた。
今度は小さく息を吐き、言葉を続けようとしたところに、不意に彼女は小さく呟くように言う。
「……今までどおりって、いつの?」
「は?」
質問の意図がわからず、やや素っ頓狂な声を上げた。
「女になってからの今までどおりなの? それとも……」
「関係ねえよ」
和馬は、彼女の言葉を遮るようにそう言った。
「お前、そんなこと気にしてたのか? 女だろうが男だろうが、お前はお前じゃん」
一息でそう言い、次に紡ぐ言葉に瑕疵がないかを頭で確認してから続ける。
「確かに、男だったころのお前のようには接することはできないけどさ。 だからといって特別扱いするつもりもねえよ」
言い終え、壁に掛かっている時計を見た。
「やっべ、バイトの時間だ。 そろそろ行くな」
立ち上がりながらそう言い、一歩踏み出す前に思い出したようにはるかのほうへ向いた。
「まぁ、とにかく。 お前は今までどおりやってればいいと思うぞ。 今までどおりのお前は、俺が知ってるし、相田だって知ってる」
和馬は次に言おうとしている自分の言葉に軽く吹き出しながら続けた。
「深山とか馬鹿とかも単純だから、言えば信じるだろうしな」
言いながらはるかに背を向け、部屋の出口の方へと歩き出す。
ドアの取っ手を引いてそれを開け、首だけを彼女へ向けた。
「早く帰って来い。 待ってるから」
「………うん」
涙で揺れた彼女のその言葉を聞き、ふっと微笑してから和馬は部屋を出た。
扉はゆっくりと閉まっていき、やがて小さな音を立てて閉じた。

 

数日後。
はるかは、医師と対面して座っている。
「念のためもう一度、後遺症がないか調べてみました」
「はい」
バッグの紐をもつ彼女の手にこもる力が心持強くなった。
「ご安心ください。 検査数値に異常はありませんでしたよ」
「…そうですか」
肩の力を抜きながらそう言う彼女に、医師は微笑を投げかける。
「今回のことは、不幸な事故だと思ってあまり気に病まずにしてください」
「はい。 そうします。 気持ちが萎えるだけですから」
医師は、微笑を笑顔に変えながら、カルテなどの書類を机にとんとんと当てて揃えた。
「それでは、お疲れ様でした」
「はい。 ありがとうございました」
はるかは立ち上がりながらそう言い、診察室を出た。
出入り口の前の椅子には、和馬が座っていた。
「おぅ。 終わったか」
「うん。 行こうか」
「ああ」
和馬はそう言い、立ち上がりながら携帯電話をポケットにしまった。
はるかは、彼がしまったそれに一瞥をくれ、苦笑した。
「カズちゃん。 ここ、病院」
「そこは抜かりなく。 電波オフモードにしてあるぞ」
ニヒルに笑う彼に、まだ苦笑を続ける。
「いや…。 それでも、印象はあんまり良くないよ」
「うぁ、マジか…。 そういや、何度か看護師に睨まれた気も…」
「その時点で気づきなよ」
「いや。 睨み返しちまった」
はるかは失笑し、呆れた顔をした。
「更に印象悪いじゃん」
「だよな…」
そう言い、ついに苦笑してしまった和馬は、開いた自動ドアをくぐった。
二枚目のドアをくぐり、深呼吸をしてはるかが横に並ぶのを待った。
「どうだ? シャバの空気は」
「お務めご苦労様、って?」
笑いながらそう言ったはるかは、彼と同じように深呼吸をして、感慨深げな表情を浮かべた。
「…なんか、新鮮かも」
ふむ、と唸り、和馬は思い出したように口を開いた。
「そうだ、快気祝いで飲みにでも行こうか」
「病み上がりなのに?」
「手術とかしたわけじゃないんだから、いいじゃねえか。 今回はオゴるぞ?」
妙に羽振りのいい彼に、はるかは少し怪訝な眼差しを向けた。
「いや、いいって。 なんか悪いし」
「気にするな。 今月、給料がよかったんだよ」
懐あたりをぽんぽんと叩く彼を横目で見て、数秒考える。
「ん~、じゃ、ごちそうになろうかな。 今日は遠慮なく飲むよ~」
「そう来なきゃお前じゃねえ」
「会計のとき、泣くなよ?」
「ふはは。 保証はできないな」
はるかは、少しいたずらっぽい笑みを作った。
「えへへ~。 えいっ!」
そう言い、和馬の手を掴んだ。
そして、慌てふためいているだろう彼の顔を覗き込もうとした。
彼は、それを少し力強く握り返してきた。
その意外な反応に驚きながら、はるかは彼の顔を見上げた。
彼は、力強い微笑をこちらに向けていた。
はるかは、照れ笑いを浮かべながら前を向き、俯いた。
それでも、お互い握り合った手は離さなかった。
二人は、前よりも近い距離で若葉の萌える並木道を歩いていった。

お わ り

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